トレヴァー・ホーンの仕事ぶりを見ていて電撃が走ったんだ。“これがプロデューサーってやつの仕事なんだ。最高じゃないか”
2024年のグラミー賞において、マイリー・サイラスは「フラワーズ」で年間最優秀レコード賞と最優秀ポップ・パフォーマンス賞(ソロ)の2冠に輝いた。この楽曲のプロデュースをタイラー・ジョンソンとともに手掛けたのが、キッド・ハープーンだ。ハリー・スタイルズやフローレンス・アンド・ザ・マシーン、マギー・ロジャース、リゾなどを手掛ける彼は、ビルボードのHot 100プロデューサーの常連であり、過去にもさまざまな作品をヒットに導いている。その音楽制作手法とはどのようなものなのだろうか。
録音中心のアプローチが源流
「何かしらを感じ取ってもらうこと、それが僕らの仕事だと思っている。それには最高のミュージシャンである必要はない。単音を2つ3つゆっくり弾くだけ、あるいはコード2種類に合わせて歌うだけ。それだけでも誰かに何かを感じてもらうことは可能だ。ハリー・スタイルズの「ゴールデン」は、僕らが一緒に作った中でも特に好きな曲の一つだけど、コードは2つだけ。僕はプロフェッショナルであると同時に、ある程度はプロらしくなさもキープしようとしているんだ」
キッド・ハープーンことトム・ハルは、2022年にリリースされたハリー・スタイルズのアルバム『ハリーズ・ハウス』では1曲を除き全曲のコライトで参加、グラミー賞では年間最優秀アルバムを含む3部門を受賞した。このアルバムには2022年のSpotifyで最も再生された曲「アズ・イット・ワズ」も含まれている。そんな彼が音楽制作において最も大事にしていること、それは“フィーリング”なのだという。
「TikTokやInstagramでは、恐ろしくうまいギタリストやピアニストを何人も見つけられる。そして、“自分はなんてダメなんだ”とショックを受けるよ。でもそれだけ。彼らは何かを感じさせてはくれない。ゴールは誰かに何かしらを感じさせること。それを覚えておくのはとても大事だ」
だからといって、ハルが演奏技術をないがしろにしているわけではない。
「マイケル・ジャクソンは最高だよ。最高のミュージシャンが集まり、しかもポップスの精神を忘れずに作品に参加している。こうした技術的に見ても卓越したミュージシャンが素晴らしい曲を演奏し、それで何かを感じさせてくれる。これこそが僕にとっての音楽の頂なんだ」
加えてハルは、「スキルと知識があれば、それを使ってさまざまなことを試せる」とも語る。
「スキルを持つことは制作のツールが増えるということだ。若い頃の僕はパンクにハマっていたけど、通っていた学校は音楽理論などを学ぶクラシック寄りの授業で、チェロやクラリネットを演奏する必要があった。ギターは選択肢すらなかったんだ。音楽理論に中指を立てて突きつけてやりたいと思っていたよ。でも歳をとってからは“誰かにもっと教えてもらえばよかった”と感じている。今では音楽理論も楽しいからね。新しいコードを学んで、それを新しい曲に使ってみる。クールだよね。学びがクリエイティビティを刺激するんだ」
機材の使いこなしも同じことだとハルは続ける。
「僕はかなりの部分をDAWの外で作業する。だから自分のスタジオにも大量のアウトボードを用意しているよ。録音中心のアプローチが自分の音楽制作の源流だし、マイクを使って録音する方が好みなんだ。ギターにピアノ、ドラムなど何でも演奏するし、生演奏用のアンプも取りそろえている。AKAI PROFESSIONAL MPCを使った打ち込みもやるし、リズムマシンも大量に持っているよ。だから、“DAWは使わずに純粋な生演奏だけを使って制作をしたい”というわけでもないんだ」
ただし、そうした機材の使い方には、やはりハルのこだわりが存在する。
「Ableton Liveですべてを組み上げてしまうよりも、シンセをプレイしたり、リズムマシンをプログラムしたり、あるいは生ドラムでビートをたたき、それを加工して好きな場所に並べる方が早いしエキサイティングだ。本物のドラムセットと生身のドラマーの組み合わせには特別な何かがあると思っている。両者の存在によって、ドラムのビートは各パーツがうまく混ざり合うんだ。それに気づけないと、まずはキックから始めて、次にスネア、そしてハイハット、パーカッション、そしてサビでは別のスネアを、という考え方になってしまう。それよりも、実際にドラムセットの前に座ってリズムを感じたほうが、より自然なビートを作ることができるようになるね」
“君、この仕事にすごく向いてるね”
ハルの音楽哲学のルーツは幼少期の音楽体験にまでさかのぼる。1982年にイングランドのケント州チャタムに生まれた彼は10歳のころにギターを始め、その後の音楽人生を通じて今に至るまでずっと彼の中心に存在しているという。
「最初はアコギから始めたんだけど、ジミ・ヘンドリックスやスティーヴィー・レイ・ヴォーンみたいにもなりたいと思っていた。歌とピアノも少しだけ学んでいて、早いうちからライブで演奏していたんだ。最初にレコーディングを経験したのはジム・ライリーと一緒にロチェスター近郊にある彼のスタジオで、キッド・ハープーンの名でショーを始めたのもこのころだ。この名前は自作の物語から取ったものなんだけどね」
20代になるとハルはロンドンに移住し、かの地の音楽シーンの一員となっていく。ナンブッカというライブハウスで常任ソングライターとなり、ジェイミー・Tなどのツアーにギタリストとして参加しつつ、2006年には独立系レーベルのブリカブラクと契約。キッド・ハープーンの名で2007年に『The First EP』、2008年に『The Second EP』をリリースした。2009年にはヤング・タークスレーベルと契約し、初のアルバム『Once』をキッド・ハープーンの名で発表。この作品はレジェンド的存在のトレヴァー・ホーンによってプロデュースされている。その2年後にハルは、ポール・エプワースと仕事を共にするようになる。どうやってこのイギリスを代表する偉大なプロデューサー2人との関係がスタートしたのだろうか。
「『Once』を作っていたころ、僕はAvid Pro Toolsを使っていたんだけど、何をどうすればよいのか全く分かっていなかった。テープに落としてから、再びPro Toolsに戻すということをやってみたんだけど、どうも僕はやらかしてしまったらしく音量が非常に低くなってね。それをPro Tools上でブーストしたらノイズまみれになってしまった。自分がいかにスタジオ作業について無知かを思い知らされたよ。それで、プロデューサーを探すことにしたんだ」
そして彼はトレヴァー・ホーンと出会うことになる。
「トレヴァー・ホーンの音楽出版社であるZTTが僕と契約してくれたんだ。ホーンは僕らがレコーディングで犯してしまった失敗について説明してくれた上で、“ロサンゼルスに行こう。もう曲自体はできているから、2週間で全部録ってしまおうか。バンドを手配するよ”と言ってくれた。そうして、ロサンゼルスにある彼のスタジオでレコーディングし、ロンドンのサーム・スタジオでもミキシングを多少行った」
この経験が、ハルをプロデューサーの道へ進ませた。
「トレヴァー・ホーンの仕事ぶりを見て電撃が走ったんだ。“これがプロデューサーってやつの仕事なんだ。最高じゃないか”とね。“音楽ってこうやって作るんだな”と思わされたよ。これが誰かのためにソングライティングやプロデュースをするようになる転換点だった」
こうして世界的ソングライター/プロデューサーへの道を歩みはじめたハルだったが、この種のストーリーによくあるように、その道のりでは幸運に恵まれることもあった。
「アーティストとしてのキャリアがモノにならないと悟ったとき、フローレンス・アンド・ザ・マシーンのフローレンス・ウェルチに連絡を取った。彼女とは歌詞や曲作りを多少一緒にやったことがあったので、一緒に何か書かないかと提案したんだ。僕は無名だったので、彼女のA&Rとマネージャーはあまり乗り気に見えなかったが、ともかく彼女と半日一緒に作業する機会に恵まれた。そうしたら、彼女のA&Rがそのときの曲にポテンシャルを感じてくれてね。当時ウェルチはポール・エプワースと一緒に制作していたので、僕も彼らと一緒に作業を進めることになった」
こうして生まれた曲がフローレンス・アンド・ザ・マシーンの2012年のアルバム『セレモニアルズ』に収録された「ネヴァー・レット・ミー・ゴー」だ。
「ゾーンに入ったエプワースは近くにいるだけでインスピレーションを得られる存在で、彼がこの曲に魔法をかけてくれた。しかも、この曲の作業が終わるや否や、彼は“明日も来るかい?”と言ってくれたんだ。それで翌日一緒に作ったのが「リーヴ・マイ・ボディ」だった。ほかに歌詞も幾つか作ったんだけど、それは最終的に「シェイク・イット・アウト」で使われた。そしてエプワースはこう言ってくれた。“君、この仕事にすごく向いてるね”って」
『セレモニアルズ』は大成功を収め、ハルは「シェイク・イット・アウト」でイギリスの作曲家向けの賞であるアイヴァー・ノヴェロ賞にノミネートされた。この活躍が彼に多くの道を開かせ、2013年までにはジェシー・ウェア、カルヴィン・ハリスなど多くのアーティストの作品でソングライティングを行い、時にはコプロダクションも担当するようになる。
「ジェシー・ウェアの「Wildest Moments」で僕に注目が集まったと思う。この曲は今でも誇りに思っている。カルヴィン・ハリスの「Sweet Nothing feat. Florence Welch」もそうだね。ハリスがまずトラックを送ってきて、それをウェルチと一緒にトレヴァー・ホーンの家で作り込んで、またハリスに戻したんだ。数週間後、彼はその曲を再構成しつつ完全に新しいトラックを組み込んだものをまた送ってきたんだけど、それには圧倒されたよ」
ドラムはALTECのマイクプリで録っている
彼の曲作りに目を向けてみよう。ハルいわく「曲作りはピアノとアコギで始めることが多い」とのこと。
「スタイルズの「フォーリング」を作ったときはピアノに30分間向かって作ったし、「スウィート・クリーチャー」は僕がアコギを弾きながら作った。「マチルダ」はイントロで聴けるアコギのフレーズを中心に作っていったね」
楽器を使って曲を作るメリットをハルは次のように語る。
「ビートを基に曲作りを進めていく方法を採ることもあるけど、楽器を演奏しながらの方がより好きだし、曲全体に一貫性を持たせられると思う。DAWを使っていると楽曲をセクションに分けて考えがちになる傾向があるんだ。“ここはサビ、ここは平歌”という感じでね。でも、楽器を使いながらだとコードとメロディをよりシームレスに滑らかにつなげて考えられる」
一方で、DAWによるサウンドプロダクションのメリットもハルは認めている。
「どちらのアプローチにもメリットはあると思うよ。曲作りと音作りを同時に進めると、サウンドからフィードバックを受けられるから、よりエキサイティングになれるしね。マイリー・サイラスの「フラワーズ」がそうだったんだけど、これはサイラスが僕らのスタジオに来て、タイラー・ジョンソンがシンセ、僕がベースを手にしてリズムを作り、それにサイラスが合わせて歌いながら曲作りを進めていった。そこでカクテルみたいなバイブスが生まれたんだけど、モダンさも加えたかったので打ち込みのドラムを足すことにした。それでディスコっぽさのある曲になったんだ」
サイラスが訪ねてきたというスタジオはロサンゼルスにあり、ハープーンハウスと呼ばれている。
「自宅のリビングルームをスタジオとして使っている。ドラムセットがあって、それを録るときはビンテージ感を出すためにALTECのマイクプリを使うね。クランチーさを出したいときはチャンネルストリップのOVERSTAYER MODULAR CHANNEL Modular Channelも通すよ。それからRoland TR-909やTR-808、AKAI PROFESSIONAL MPC3000などのドラム系マシンを壁一面に並べている。ドラムは実際にたたくこともあれば、打ち込むこともあって、そのサウンドはEMPIRICAL LABS FATSOやTHERMIONIC CULTURE The Rooster、もしくはUTA UNFAIRCHILD 670M IIといった機材を通して録っている。録る前にできるだけサウンドを作り込んで、後から触らずに済むようにしているんだ」
前述の通り、アウトボード類も多数用意しているそう。
「Solid State Logicのサウンドが欲しかったので、マーク・スパイク・ステントに勧められたGシリーズのチャンネルストリップを導入している。また同社のバスコンプも最近手に入れた。コンソールのapi 2448も持っているけど、スタジオを引っ越す可能性があるからまだ箱から出していない。それからオールドのリバーブやディレイも好きだ。LexiconやYAMAHA REV7などの古いモデルだね。ステントにはボロクソに言われたけど、個人的には素晴らしいと思っている」
続けて「ギターとキーボードもたくさんあるよ」とハル。
「気に入っているギターは1960年代のGibson Melody Maker、とても素晴らしい12弦のRickenbacker 660/12TP Tom Petty Limited Edition、そしてスタイルズにもらった最高のGibson ES-335などだ。シンセはYAMAHA CS-80やARP Omni、Roland Jupiter-8などが特に気に入っている。テープマシンのREVOX B77とTASCAMの8トラック・テープレコーダーもあって、ドラムはこれで録ってPro Toolsに流し込むことが多い。サンプラーはAKAI PROFESSIONAL S950とensoniq ASR-10が好きだ。こういうオールドのサンプラーはテープと同じく、全体をうまくなじませてくれる効果がある」
さらに、マイクについても教えてくれた。
「アコギを録るときのファーストチョイスはNEUMANN U 67で、ボーカルはTELEFUNKEN ELA M 251だ。マイクプリはBAE 1073を使っていて、そこからTELETRONIX LA-2Aを通している」
ストリンガーの家に大量の機材を持ち込んだ
ここまでに述べられたハルの好む手法の多くがハリー・スタイルズの『ハリーズ・ハウス』でも活用された。このアルバムの大部分はソングライター兼プロダクションコラボレーターであるタイラー・ジョンソンとハル、そしてハリー・スタイルズによるバンドと、エンジニアのジェレミー・ハッチャーがサポートに加わる形で制作されている。しかし、新型コロナウイルスのパンデミックにより、彼らの重視する共同性には大きな制限をかけられてしまったという。
「コロナ禍でスタイルズはツアーに出ることができなくなってしまった。だから、“スタジオに行こうぜ”って言っていたんだ。それで、リック・ルービンのシャングリラ・スタジオに1カ月滞在することにした」
彼らはそこで純粋に音楽を楽しんだという。
「当時は皆、真剣にコロナ禍について心配していた。このまま皆、死んでしまうんじゃないかってね。そんな中で僕らに最後まで残ったマインドが音楽を作ろうということだった。だから、僕らはただの友達としてスタジオにこもり、音楽を楽しんでいたんだ。そこで生まれたものが良いか悪いかなんてことは考えずにね。それが音楽にも素直に表れていたと思う。率直に言って、今までの人生であのスタジオで音楽を作っていた瞬間ほど楽しかったことはなかったよ」
そこで生まれた1曲が「レイト・ナイト・トーキング」だ。
「この曲はまずスタイルズがスローでジャジーなコードを思いついたことから始まった。それに対して僕がもっとテンポを速くすることを提案してドラムを足し、サビのコードを考えた。全員がそれぞれのアイディアから学び合っていたんだ。スタイルズとジョンソン、それに僕との間で行われるプロセスでユニークなのは、これらのすべてが探究だということだろう。出てきたアイディアの良しあしなんて決めずに、すべてが選択肢となった。全員が気に入る何かを作るということ以外の目標はなくて、それを達成するためのただ一つの方法が探究することだったんだ」
シャングリラで大量の楽曲を制作した後、この4人組は解散して新たなセッションが別のスタジオで行われた。ピーター・ガブリエルのリアル・ワールドではミッチ・ロウランドが参加し、ロンドンのアンジェリック・レコーディング・スタジオとハリウッドのヘンソン・レコーディング・スタジオでもセッションが行われた。そして、最大のヒット作が生まれたのはソニー・ミュージックエンタテイメントのCEO兼ソニーミュージックグループのチェアマンを務めるロブ・ストリンガーの自宅だった。
「ロンドン郊外のストリンガーの家に大量の機材を持ち込んで、そこら中をガムテープだらけにしたよ。“こんなことしてロブに殺されなきゃいいんだけど”なんて思っていたけどね。そこでも多くの曲を作った。「アズ・イット・ワズ」「シネマ」「ラヴ・オブ・マイ・ライフ」などだ。中でも初日に作ったのが「アズ・イット・ワズ」だった。ジョンソンがコードを思いつき、スタイルズがそれに合わせてメロディを歌いはじめた。そこで僕が“ビートを足してみよう”と言ってmoogのmoog oneを弾いたんだ。シンセサウンドはすべてこれで作っている」
ドラムは、ストリンガーの自宅にある図書室で録音されたそう。「これにはかなりの手間がかかっている」とハル。
「本が大量に置いてあるから良いサウンドになると思ったんだけど、実際にはまるで使えない音だった。そこでキック、スネア、ハイハットを個別に録り、それを最初に録ったドラムと置き換えていったんだ。結果的にすごくクールなドラムサウンドを作り出せたよ。でも、本当はもっとナチュラルなフィーリングのドラムが欲しかった。そこでリアル・ワールドでロウランドにドラムをたたいてもらったんだ。ところが、生ドラムでは何かが失われてしまうように感じてね。結局、ロブの家で録ったドラムもそのまま使ったよ。ただ、曲の終わりでロウランドがたたいているフィルは最高だった。だから曲前半のドラムは加工しまくったサウンドで、後半にロウランドのドラムが入ってきて最終的には爆発的なフレーズを生み出している。まさに、すべてを組み合わせて作り上げていくという僕らのプロセスそのものだった」
ハルによれば、『ハリーズ・ハウス』の制作ではポストプロダクションでも相当の作業が行われたという。「これはジョンソンと僕がDAWで細かな部分まで詰めまくる作業だった」と回想する。
「ラフミックスを皆で聴き込んで、細かい部分を追い込んでいった。スタイルズもそれを聴いてコメントをくれたよ。常に互いをリファレンスにしながら作業を進めていったんだ。トレヴァー・ホーンと一緒に仕事をしていたころに教わったのが、“常にスタート地点を基準にしろ”ということだった。何をするにも、まずリファレンスポイントを設けてから仕事を始める。常に作業の開始地点をリファレンスとして、現在の状況と比較し、リファレンスから向上しているかどうかを判断するんだ。例えば、“ドラムとベースは良くなったけどボーカルはむしろダメになった”ということがあれば、“今からボーカルの作業に移ろう”という感じだね。過去のバージョンも大量のリファレンスポイントになるよ」
このポストプロダクションが完了した後、ミックスをマーク・スパイク・ステントに委ねたという。
「彼がミックスしている様子は、まるでデビッド・ベッカムがフリーキックを蹴っているところを見るようだよ。僕のラフミックスは、スパイクをテストできるレベルを目指しているんだ。“さて、ここからどれだけ良くできるのか見せてもらおうじゃないか”とね。でも、彼は常に僕を打ち負かしてくる。いかに自分がダメなのかを思い知らされるよ。彼は常にすべてを最高のサウンドにしてくれるんだ」
最後に、「アズ・イット・ワズ」の成功について尋ねてみた。
「誰もこんなにヤバいレベルになるなんて思ってもいなかったよ。良い曲ができたということは分かっていても、それが世に出てどうなるかなんて分からない。そこにはマーケティング上のキャンペーンやらタイミングやらありとあらゆる要素が絡んでいてとても複雑だからね。こうして何もかもがうまくいくのは非常にレアなケースだ」
そもそもハルは、曲を作っているときに、それ以外のことは考えていないという。
「制作中に考えるべきこと、それは純粋に“はたして自分はこの曲が好きなのか”“君はこの曲を気に入ってくれるのか”“この曲の何が気に入っているのか”“フィーリングを与えるためにはどうしたら良いのか”ということだけだ。それ以外は、すべて自分ではコントロールできない副産物だからね。そんなことを考えてしまうと、特別で魔法のような音楽を損ねてしまうことになるんだよ」