ヒューストンのローカルグループのB面曲が世界中のダンス音楽に与えた影響
ジョー・ターシアがシグマ・サウンドを設立する以前、ギャンブル&ハフはまだ売れっ子とは言いがたいソングライター/プロデューサーチームだった。1967年に全米4位まで昇ったソウル・サヴァイヴァーズの「Express To Your Heart」が彼らの最大の成功作だった。だが、そこでつながりを深めたアトランティック・レコードから1968年の春にデカい仕事が舞い込んだ。それは「Tighten Up」(タイトゥン・アップ)を大ヒットさせたアーチー・ベル&ザ・ドレルズのプロデュースだった。
アーチー・ベル&ザ・ドレルズはテキサス州ヒューストン出身のコーラスグループで、1967年12月、ヒューストンのマイナーレーベル、Ovideから『Dog Eat Dog / Tighten Up』というシングルをリリースした。このシングルのB面の「Tighten Up」が地元のラジオで人気を呼び、1968年2月にアトランティックレコードから再発売されると、さらに全米のラジオでも火がついた。アトランティックはさらに同年3月、『Tighten Up Part 1 / Tighten Up Part2』というAB面のシングルを発売。アーチー・ベル&ザ・ドレルズはそれまで全く無名だったが、「Tighten Up」は同年5月には100万枚を売る大ヒット曲となった。最終的には同年8月にR&Bチャートとポップチャートの両方でNo.1に輝いた。
「Tighten Up」は日本ではイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のカバーで知る人も多いかもしれない。1980年のアルバム『増殖』に収められたYMOの「Tighten Up」は演奏的には、アーチー・ベル&ザ・ドレルズのオリジナルバージョンをかなり忠実になぞったものだ。「Tighten Up」は画期的なダンスチューンとして世界中で愛され、音楽史に大きな影響を残した。だが、その曲が生み出された背景はあまり知られていないだろう。
テキサスの学生バンドのダンスチューンがドレルズ不在のヒットを生み出す
アーチー・ベルは1944年、テキサス州ヘンダーソンで生まれたR&Bシンガーで、高校時代の友人とともにコーラスグループのドレルズを結成した。ヒューストンのラジオ局、KCOHのDJだったスキッパー・リー・フレイザーが彼らに目をつけ、設立したOvideレーベルの第1弾として、1966年にデビューシングル『She’s My Woman, She’s My Girl / Yankee Dance』をリリースする。1967年には2枚目のシングル『Soldier 's Prayer, 1967 / One On One』をリリース。だが、問題が発生していた。ベルに徴兵令状が届いたのだ。「Soldier's Prayer, 1967」はそのことを直接的に歌った曲で、“ベトナムには行きたくない”と訴えている。
続く3rdシングルとして制作されたのが『Dog Eat Dog / Tighten Up』だったが、ベルはルイジアナの訓練キャンプに入隊。レコーディングはわずかな休暇を利用して行われた。とりわけ、B面の「Tighten Up」はベルがベトナムに旅立つ直前に突貫で作られたものだった。
ファンキーなインストゥルメンタルにアーチー・ベルのコミカルなしゃべりが乗る「Tighten Up」はある意味、ラップチューンのはしりと言ってもいいものだった。演奏しているのはフレイザーのOvideレーベルに所属していたTSUトルネードスというグループ。TSUトルネードスのTSUとはTEXAS SOUTHERN UNIVERSITYの略称で、彼らはテキサス・サザン大学内で結成された学生バンドだったが、ヒューストンのクラブで演奏する中で、誰もがダンスフロアに突進し、熱狂するような1曲を生み出していた。それが「Tighten Up」の元となるインスト曲だった。
スキッパー・リー・フレイザーの自伝『Tighten Up: The Autobiography of a Houston Disc Jockey』によると、TSUトルネードスのリーダー、サックス奏者のリロイ・ルイスがこの曲にアーチー・ベル&ザ・ドレルズをフィーチャーして録音できないかと持ちかけたところから、「Tighten Up」は生まれたということだ。シングルのB面の曲を欠いていたフレイザーは、そのアイディアに飛びつき、TSUトルネードスの演奏を1日で録音。翌日にアーチー・ベルを呼んで、しゃべりのパートを録音させた。ラジオDJであるフレイザーがベルを指導して、30テイクくらい録り直しさせたらしい。
「Tighten Up」というダンスヒットはこんな経緯から生み出されたのだが、それがラジオでかかりまくり、チャートを上昇していくときには、アーチー・ベルはもうベトナムに送り出されていた。アーチー・ベル&ザ・ドレルズがツアーの要請を受けても、ベルは不在。そこでフレイザーはどうしたかというと、何とベル抜きのドレルズをツアーに出したのだった。メンバーのジェイムズ・ワイズがベルに扮し、「Tighten Up」をやったが、誰もそのことには気づかなかった。というのも、人々はまだアーチー・ベルの顔を知らなかったからだ。
アトランティック・レコードは「Tighten Up」をフィーチャーしたアルバムの発売を望んだ。だが、過去の録音だけではアルバムには曲数が足りなかった。そこでTSUトルネードスとベル抜きのドレルスの3人がニューヨークのアトランティック・スタジオに出向きレコーディングを行った。TSUトルネードスのカール・トーマスがオリジナル曲2曲を歌ったり、何とか曲数を増やして、アーチー・ベル&ザ・ドレルズのデビューアルバム『Tighten Up』は完成した。だが、まだ問題は残った。「Tighten Up」の次のシングルになるような曲が見当たらなかったのだ。
“偶然に続くヒット”に取り掛かったギャンブル&ハフ
1968年5月にアルバム『Tighten Up』が発売された頃には、シングル「Tighten Up」は200万枚を売ろうとしていた。しかし、そのシングルは偶然の産物だった。アーチー・ベル&ザ・ドレルズは本来、コーラスグループであり、「Tighten Up」のフォローアップになるような曲は、彼ら自身では作れそうになかった。そこでアトランティックがフレイザーに提案したのが、ギャンブル&ハフというソングライター/プロデューサーチームに2ndシングルの制作を任せるというプランだった。
ギャンブル&ハフにとってはそれはデカい仕事であると同時に、困難な仕事でもあった。「Tighten Up」に続くヒット曲が求められているが、同じことはできない。アーチー・ベル&ザ・ドレルズ本来の歌ものへのシフトを図りつつ、アトランティックが期待するような2ndシングルを作らねばならない。この難題に応えるために、彼らはフィラデルフィアの才能を結集させることにした。そして、1968年6月18日に録音されたのが、アーチー・ベル&ザ・ドレルズの2ndシングルとなる「I Can't Stop Dancing」と「Do the Choo Choo」の2曲だった。
このレコーディングにはアーチー・ベル以外のドレルズのメンバーも、TSUトルネードスも参加しなかった。一時休暇で軍を離れたベルだけが参加した。ベルはベトナムで負傷し、ドイツの米軍基地に送られていたということになっているが、本当に負傷したのかどうかは疑わしい。「Tighten Up」が巨大なヒット曲になる中、バンドのフロントマンがベトナムで戦死したとなると、社会的な影響が大きい。それを恐れて、米軍がベルをドイツに移していたのではないかと想像される。
6月18日のレコーディングはニューヨークのアトランティック・スタジオで行われた。Wikipediaの「I Can’t Stop Dancing」の項にはシグマ・サウンド録音と書かれているが、この時点ではシグマ・サウンドはオープンしていない。ギャンブル&ハフはフィラデルフィアオールスターズともいうべきメンバーを引き連れて、ニューヨークに向かった。アレンジャーは「I Can’t Stop Dancing」がトム・ベル、「Do the Choo Choo」がボビー・マーチン。クレジットはないものの、メンバーの証言などから、ドラムはアール・ヤング、ベースはロニー・ベイカー、ギターはボビー・イーライ、キーボードはトム・ベル、ビブラフォンはヴィンセント・フォンタナだったと思われる。そして、ドレルズの代わりにコーラスを担当したのはギャンブル&ハフだった。
TSUトルネードスの「Tighten Up」がダンスミュージックの歴史を書き換えた理由
「I Can’t Stop Dancing」はラップ的なしゃべりではなく、スウィートなR&Bコーラスを聴かせるポップチューンだったが、「Tighten Up」のビート感やコード感はそのまま引き継いでいた。後にMFSBとなるメンバーたちとともに、アトランティック・スタジオでこの曲をレコーディングしたことは、ギャンブル&ハフにとって大きな経験だったと思われる。というのも、1970年代にディスコサウンドで大成功をつかむギャンブル&ハフも、この頃まではそこまでダンス性の高い音楽を作り出していた訳ではなかったからだ。
「Tighten Up」は画期的なダンスチューンだった。そのビート感やコード感、さらにはダンスミュージックとしての構造には1970年代のディスコ、さらには1980年代以後のハウスミュージックにも連なるものがあった。「Tighten Up」のBPMは126前後で、テンポ的にも後のディスコやハウスと親和する。ドラムのパターンは4つ打ちではなかったが、YMOのバージョンはほぼ同じテンポで4つ打ちに変えている。
TSUトルネードスが「Tighten Up」の元となるインスト曲を作り出した頃、アメリカのダンスミュージックの頂点に立っていたのはジェームス・ブラウンだった。ジェームス・ブラウン&フェイマス・フレイムズが革命的なダンスチューン「コールド・スウェット」をリリースしたのは1967年7月だ。マイルス・デイビス「ソー・ホワット」にヒントを得たという「コールド・スウェット」は、リフ主体のワンコード演奏を続けるJB流のファンクが確立された曲であり、アメリカ中のダンスバンドに影響を与えた。TSUトルネードスももちろん影響を受けていただろう。
だが、TSUトルネードスには数多いJBフォロワーのダンスバンドとは決定的に違う個性があった。ファンクミュージックはブルージーな7thコードの響きを基本とする。ところが、TSUトルネードスはメジャー7thのコードを好んで使ったのだ。Ovideレーベルからのデビューシングル「A Thousand Wonders」もそうだったし、「Tighten Up」もそうだ。1970年代になればマーヴィン・ゲイ、カーティス・メイフィールド、ダニー・ハサウェイらに主導されたニューソウルの流れが、メジャー7thコードを使った名曲を数多く生み出す。だが、1967年の時点ではそれはまだまだ珍しかった。アップテンポのダンスチューンでそれを多用していたのはテキサスの学生バンド、TSUトルネードスくらいだったのが現代から振り返ると分かる。
加えて、「Tighten Up」は現代のダンスミュージックにも連なるある種の構造を備えていた。それはシーケンスの組み合わせで作られた楽曲だということだ。曲はツーコードの繰り返しが基本で、各楽器の演奏は同じシーケンスを繰り返す。冒頭はベースラインだけから始まり、ドラムスとギターが加わるが、すぐにドラムだけになり、そこにベースが加わり、ギターが加わり、と各楽器の演奏を示す形で進む。最終的にはそこにホーンリフとクラップが加わる。「Tighten Up Part2」ではさらにコーラスも加わる。あたかも、ミキシングボードのチャンネルのオン/オフをするように、シーケンスの組み合わせでさまざまな場面を作っていく。TSUトルネードスはそういうことを生演奏でやっていたのだ。「Tighten Up」が現代でも愛されるダンスクラシックとなっているのは、こうした曲の構造によるところも大きいだろう。
当時のR&Bダンス・チューンを振り返ってみると、同様のアイディアを持つダンス・ヒットはほかにもあった。キング・カーティスが1967年9月に発表したシングル「Memphis Soul Stew」だ。ベースラインだけから始まり、ドラムスとギターが加わり、というパターンは全く同じだ。TSUトルネードスは「Memphis Soul Stew」の影響を受けて、「Tighten Up」を生み出したのかもしれない。
ただし、「Memphis Soul Stew」は113BPMほどのブルージーなR&Bインストだった。126BPMの「Tighten Up」にはラテン的なシンコペート感覚もあり、その点でも後のハウスミュージックに連なる。これは多分、彼らが同時期にニューヨークのラテンピープルの間で大流行したブーガルーの影響も吸収していたからだと思われる。ブーガルーブームの牽引車(けんいんしゃ)となったアーティストにプーチョ&ラテン・ソウル・ブラザーズがいるが、彼らの1967年のアルバム『Saffron and Soul』に収録されている「The Groover」という曲などは、まさしく「Tighten Up」に近いグルーブ感を持つアップテンポのダンスチューンだ。
逆に「Tighten Up」はブーガルーのミュージシャンにも影響を与えた。ファニア・レーベルのプロデューサー、ハーヴェイ・アヴェーンが率いたハーヴェイ・アヴァーン・ダズンが1968年に発表したシングル「Never Learn To Dance」はビートやサウンドはもとより、歌詞的にも「Tighten Up」へのアンサーソングというべきものだった。この曲はいち早く“ディスコティック”(discotheque)というフランス語を歌い込んだダンスチューンだった点でも、注目される。
こうして見てくれば、TSUトルネードスがダンスミュージックの歴史を書き換えた、驚くべきバンドだったことが明らかになる。だが、彼らは無名の学生バンドに過ぎず、アーチー・ベル&ザ・ドレルズのレコードでは満足にクレジットも得られなかった。「Tighten Up」はアーチー・ベルとドレルズのビリー・バトラーの共作曲として出版登録され、彼らには出版印税も一銭も入らなかった。「Tighten Up」の印象的なベースラインを弾いたジェリー・ジェンキンスはレコーディング時には19歳。翌年には兵役に就かねばならず、バンド活動を断念した。バンドは1971年に分裂。その後にミュージシャンとして名を挙げた者は一人もいない。
代わりに彼らの遺産を引き継ぎ、大成功に結びつけたのはギャンブル&ハフ以下のフィラデルフィアのミュージシャンたちだった。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima