シルク・ソニックが強く意識したフィリー・ソウルとMCIコンソールの関係
マッスルショールズ・サウンド・スタジオやフェイム・スタジオでも使用されたMCIのJH-400シリーズのコンソールには、1970年代のソウル・ミュージックやファンク・ミュージックのイメージもある。近年、それを再認識させたのがブルーノ・マーズとアンダーソン・パークがタッグを組んだスーパーR&Bデュオ、シルク・ソニックだった。
シルク・ソニックは2021年3月に「リーヴ・ザ・ドア・オープン」でデビュー。3枚のシングルを重ねた後、同年11月にデビュー・アルバム『アン・イヴニング・ウィズ・シルク・ソニック』を発表した。翌年のグラミー賞では「リーヴ・ザ・ドア・オープン」が最優秀楽曲賞、最優秀レコード賞など4部門を受賞し、空前の大成功を収めた。1970年代的なレトロ・ソウルを志向する彼らの音楽性は、古めかしいレコーディング・スタジオでの演奏風景を収録した「リーヴ・ザ・ドア・オープン」のMVからも明らかだったが、そのスタジオのコントロール・ルームにはMCIのJH-400シリーズ・コンソールを見ることができる。もちろん、これもこだわりの演出だろう。
実際のレコーディングにMCIのJH-400シリーズ・コンソールが使われたどうかは分からない。アルバムの録音の一部はMCI JH-500シリーズ・コンソールを備えたメンフィスのローヤル・スタジオで行われているが、全曲のミックスが行われたヴァージニア州のミックススター・スタジオは現代的な環境のスタジオだから、DAWも駆使しつつ、仕上げられたサウンドなのは間違いない。だが、イメージとして、1970年代前半のMCIのJH-400シリーズ・コンソールで制作されたソウル・ミュージックをブルーノ・マーズとアンダーソン・パークが強く意識していたのは間違いないだろう。「リーヴ・ザ・ドア・オープン」の甘美なメロディはデルフォニックスやスタイリスティックスなどのフィラデルフィア・ソウルを思わせるが、その拠点だったフィラデルフィアのシグマ・サウンドも1970年代初頭にはMCI JH-400シリーズ・コンソールを使用していたことで知られる。
本誌の執筆者としてもおなじみのエンジニア、中村公輔氏の深海スタジオが、昨年MCI JH-400シリーズ・コンソールをインストールした。筆者は自分でMCIコンソールを触った経験はないので、その感触を中村氏に電話で質問してみたところ、最初に出てきた言葉が「通すと何でもシルク・ソニックみたいな音になる」だった。逆からいうと、サチュレーションの癖は強く、現代的なワイド・レンジのR&Bサウンドを求めるときには向かないキャラクターだとは思われる。
タッチ・センスを搭載したカスタムMCIとビー・ジーズのディスコ・サウンド
MCIは1976年にはJH-500シリーズ・コンソールを発表する。だが、同社のフラッグシップとして名高かったマイアミのクライテリア・スタジオのスタジオCのコンソールは、グローヴァー・ハーネッドによるハンドメイドで、量産型のJH-400シリーズやJH-500シリーズとは別次元の、ワン&オンリーの機材だった。オール・ディスクリートで、巨大な入出力トランスを備えたこのコンソールは、1968年の導入以来、アップデートが重ねられていた。ルックス的にはタッチ・センシティブ・スイッチを採用していて、各コントロール部がさまざまな色に光り輝くことが大きな特徴だった。
このクライテリアのスタジオCコンソールの最初のヘビー・ユーザーになったのはトム・ダウドだった。1960年代の終わりにマイアミに移住し、アトランティック・レコードも退社した彼は、アトランティックとの仕事も続けつつ、他レーベルの作品もクライテリアで手がけた。中でも、エポックメイキングな仕事になったのが、1974年のエリック・クラプトンのアルバム『461オーシャン・ブールヴァード』だ。それ以前にダウドはオールマン・ブラザーズやデレク&ザ・ドミノスのアルバムもクライテリアで制作しているが、『461オーシャン・ブールヴァード』からは24trレコーディングになったようで、クリーンかつコシの強いロック・サウンドは一段レベル・アップした感がある。クラプトンにとっても、シンガー&ギタリストとしてバランスの取れたソロ・アーティストとなり、ポップな作品を生み出せるようになった最初のアルバムだった。ボブ・マーリーのカバーである「アイ・ショット・ザ・シェリフ」を大ヒットさせ、レゲエ・ミュージックへの世界的注目を高めたことも忘れがたい。
翌1975年にはRSOレコードでクラプトンのレーベルメイトだったビー・ジーズがクライテリアにやってきて、アルバム『メイン・コース』を制作した。これも彼らのキャリアの転換点となるアルバムだった。ビー・ジーズにとっての初のディスコ・アルバム。それがアメリカ移住後の起死回生策となったのだ。
1973年にイギリスからアメリカに移住したビー・ジーズのギブ三兄弟は、彼らのマネージャーでもあったロバート・スティッグウッドが設立したRSOレコードに移籍。第1弾としてアルバム『ライフ・イン・ア・ティン・キャン』をリリースしたが不発に終わった。アリフ・マーディンをプロデューサーに迎えた1974年のアルバム『ミスター・ナチュラル』も売れず、彼らはそれまでの甘美なソフト・ロック路線に見切りをつけざるを得なくなった。そこで着目したのが、ソウル・ミュージック界で巻き起こりつつあったディスコ・ブームだった。
もともとR&Bやソウルのファンだったギブ兄弟は、アリフ・マーディンとともにマイアミに赴き、ディスコ・ファンク的なビートに乗せた自分達の音楽を模索した。そして生まれたのが、「ブロードウェイの夜」「ジャイヴ・トーキン」の2つの大ヒット曲を含むアルバム『メイン・コース』だった。
興味深いのはこのとき、ビー・ジーズはオーケストラの編曲にはヴァン・マッコイのアレンジャーだったユージン・オルロフの手を借りたものの、ベーシックな演奏陣についてはイギリスから旧知のミュージシャンを呼び寄せたことだ。当時のディスコ・サウンドの最大の拠点はフィラデルフィアのシグマ・サウンドで、そこに常駐するミュージシャン集団のMFSBが多くのアーティストに貢献していた。だが、ビー・ジーズは安易なフィラデルフィア詣はしなかったし、マイアミでもソウル・ディスコ系のセッション・ミュージシャンには頼らなかった。それが翌年のセルフ・プロデュース作『チルドレン・オブ・ザ・ワールド』以後の彼らの空前の大成功にもつながったと考えられる。
1970年代のディスコ・ブームはジョン・トラボルタが主演した1977年の映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の大ヒットとともに世界へと拡大する。「ステイン・アライヴ」「恋のナイト・フィーヴァー」などのモンスター・ヒットを含む、そのサウンド・トラック・アルバムでもビー・ジーズはセルフ・プロデュースで、自分たちのバンドとともに多くの曲を制作した。マイアミでイギリス人のミュージシャンたちが作り出したディスコ・サウンドがブームのピークを生み出したのだ。タッチ・センターでLEDが光り輝く、世界に1台だけのクライテリアのスタジオCコンソールがそのサウンド・メイキングの鍵だったというのも、出来すぎたエピソードに思われる。
ELOが解き明かしたイーグルスとビー・ジーズの共通項
ビル・シムジクとイーグルスがクライテリア・スタジオを拠点にしたのも、このビー・ジーズの成功とほぼ同時期だった。シムジクが最初にクライテリア・スタジオを使ったのは1974年のジョー・ウォルシュのアルバム『ソー・ホワット』だと思われる。本誌の2010年11月号に掲載されたシムジクのインタビューを読むと、当時、マイアミへの移住を検討していたシムジクはクライテリアのオーナーのマット・エマーソンに “もしMCIのコンソールを24chにアップグレードしてくれるなら、すぐにでもこのスタジオを予約する”と持ちかけたそうだ。ほどなく、16chだったクライテリアのスタジオCコンソールは24chに拡張された。シムジクはそれでジョー・ウォルシュの『ソー・ホワット』を制作し、1975年にはイーグルスのアルバム『呪われた夜』(One Of These Night)の全曲をクライテリアでミックスした。
ロック界で巨大な成功を収めたイーグルスと、ディスコ・ブームの中で巨大な成功を収めたビー・ジーズが、同時期に同じマイアミのスタジオで働いていたことになるが、両者の間には何か影響関係はなかったのだろうか? 現代から振り返ってみると、全く違ったジャンルで活動していた2つのグループは、意外に似た音楽をやっていたようにも思われる。コーラス・グループという点では共通点があったし、イーグルスのドン・ヘンリーやグレン・フライもソウルやR&Bの大ファンだった。彼らの人気を決定づけた1975年のヒット曲「呪われた夜」はファルセット・コーラスを多用。リズムはスピナーズの「いつもあなたと」(I’ll Be Around)のようなフィリー・サウンドを思わせる。キックは4つ打ちで、107BPMくらいのスローなディスコ・サウンドとも言える。「呪われた夜」のシングルは1975年5月にリリースされているが、同じ月にビー・ジーズの「ジャイヴ・トーキン」もリリースされている。奇しくもこの「ジャイヴ・トーキン」も107BPM前後のスロー・ディスコだ。
「呪われた夜」のディスコ性に気づいた人は発表当時にはあまりいなかったかもしれない。だが、1979年にエレクトリック・ライト・オーケストラ(ELO)が発表したシングル「ロンドン行き最終列車」(Last Train To London)は、「呪われた夜」のリフやコード感を借用し、120BPM以上にテンポアップしたディスコ・チューンとも言うべき曲だった。歌詞には“One Of Those Nights”という言葉が何度も出てくる。メジャー・コードに展開してからは、ビー・ジーズ風のファルセット・コーラスが宙を舞う。ELOのジェフ・リンがイーグルスとビー・ジーズの共通点に意識的で、両者へのオマージュとして、この「ロンドン行き最終列車」を作ったのは間違いないと思われる。
世界的ヒットを数多く生み出したMCIカスタム・コンソールの行方
イーグルスの最大のヒット・アルバムとなった1976年の『ホテル・カリフォルニア』も『呪われた夜』と同じく、ロサンゼルスのレコード・プラントとマイアミのクライテリア・スタジオでレコーディングされ、ミックスは全曲がクライテリアだった。アルバムの制作は8カ月間に及び、プロダクションも複雑化した。スタジオ内で作曲作業が行われることが多くなり、テイク数も膨大になった。曲によっては、2インチ・テープを何十カ所もカットして、現代のAVID Pro Toolsによる制作にも比するような編集を行ったと、シムジクは振り返っている。ボーカルの細かなテイク編集に際しては、チャンネルを瞬時に切り替えられるクライテリアのスタジオCコンソールのタッチ・センシティブ・スイッチが真価を発揮したという。ただし、このタッチ・センサーは故障も多かったそうだ。
『ホテル・カリフォルニア』の完成後、シムジクはフロリダ州のココナッツ・グローヴに自身のベイショア・レコーディング・スタジオを建設。同スタジオにはMCI JH-500シリーズのコンソールを導入した。1979年発表のイーグルスの『ロング・ラン』ではベイショア・レコーディングが使用され、クライテリア・スタジオにはもうイーグルスは戻らなかった。クライテリアのスタジオCのコンソールも1978年にVCAによるミキシング・オートメーションを装備したMCI JH-500シリーズに取って代わった。
『ホテル・カリフォルニア』『サタデー・ナイト・フィーバー』『461オーシャン・ブールヴァード』『いとしのレイラ』などなど、数々の歴史的名盤が制作された、世界に1台だけのMCIのカスタム・コンソールはその後、どうなったのかだろう? クライテリアはそのコンソールをREOスピードワゴンやハリー・チャピンを手がけていたコネチカット州在住のプロデューサー、ポール・レカに売却したそうだ。しかし、ほどなくレカは自身のスタジオを閉鎖したため、コンソールは何年もの間、ガレージでほこりをかぶっていたという。
カスタムメイドだったコンソールは回路図も残されていなかった。だが、1986年にニューヨークのスタジオ・テック、ビル・タイタスがそれを再生させ、紆余曲折を経て、ナッシュヴィル在住のプロデューサー、リジ・ショウが持つトイ・ボックス・スタジオが2021年までそれを所有していた。ただし、タッチ・センサーの問題もあり、どの程度のコンディションにあるのかは不明だ。
MCIのJH-500シリーズはミキシング・オートメーションを装備できる量産型のコンソールだったが、以前の回でも触れたように。1970年代半ばにはQUADEIGHT/ELECTRODYNEもAPIもオートメーション機能を持つコンソールを開発していた。故に、MCIがその先駆というわけではなかった。ミキシング・オートメーションに関して、その革命性を音楽的な意義を含めて語るならば、スタート地点となるべきスタジオは一つしかない。それは先述のMCI JH-400シリーズ・コンソールを使用していた時期のフィラデルフィアのシグマ・サウンドだ。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima