20歳前後の精鋭が集まるフェイム・スタジオ
1972年に発売されたMCI JH-400シリーズのコンソールは、多くのインディペンデント・スタジオにとって朗報となった。それはマルチトラックに対応するコンパクトなインライン・コンソールであり、価格的にも手ごろだったからだ。
近年、ドキュメンタリー映画の登場などで話題を集めたアラバマ州のマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオもMCI JH-400シリーズのコンソールを導入したスタジオのひとつだった。マイアミのクライテリア・スタジオと同様に、このスタジオもアトランティック・レコードとのつながりが深かった。スタジオ・ミュージシャンが自分たちのスタジオを建設し、数多くのビッグ・アーティストを呼び集めて、南部音楽の聖地とまで称されるようになるという類いまれな物語を生んだマッスル・ショールズ・サウンドは、1970年代のアメリカン・サウンドの中でMCIコンソールが活躍した例としても、忘れることができないものだ。
マッスル・ショールズはアラバマ州の北端に位置する人口1万人ほどの町だ。この町が音楽界で最初に注目を集めたのは1961年。R&Bシンガーのアーサー・アレキサンダーが「You Better Move On」という曲をヒットさせたのがきっかけだった。同曲のプロデューサーはブレンダ・リーやバディ・ホリーなどに曲を提供していたソングライターのリック・ホール。彼は同年にマッスル・ショールズで倉庫を改造したスタジオを開設した。ホールはホテルの従業員だったアレキサンダーのシンガーとしての才能を見出し、地元のミュージシャンを集めて、「You Better Move On」をレコーディングした。セッションに参加した中には、後にナッシュビルでプロデューサーとして大成功するベースのノーバート・パットナム、ピアノのデヴィッド・ブリッグスもいた。
アーサー・アレキサンダーの「You Better Move On」はアメリカのみならずイギリスでも話題になった。1964年にはローリング・ストーンズがカバーして、全英No.1を獲得。ジョン・レノンも同曲がお気に入りで、アビイ・ロードでのレコーディングに際して、このベース・サウンドが欲しいと参考音源に持参したという逸話がある。
リック・ホールは周辺地域の才能あるミュージシャンを集める力にたけていた。ソングライターのダン・ペン、彼の盟友であるキーボード奏者のスプーナー・オールダムも彼のフェイム・スタジオの常連だった。ホールはさらに若い世代の優秀なミュージシャンも数多く見出した。ドラムスのロジャー・ホーキンス、ベースのデヴィッド・フッド、キーボードのバリー・ベケット、ギタリストのジミー・ジョンソンらだ。彼らは10代から20歳そこそこの白人のミュージシャンだったが、R&Bのリズム・セクションとして抜群の演奏力を誇った。
1964年にはフェイム・レコードからリリースされたジミー・ヒューズの「Steal Away」がヒット。フェイム・スタジオとリック・ホールの手腕に、アトランティック・レコードも注目するようになる。1966年、ウィルソン・ピケットのフェイム・スタジオでの初録音だった「ダンス天国」(The Land Of 1000 Dance)がR&Bチャートで1位、ポップ・チャートでも6位を獲得。以後、アトランティックはオーティス・レディング、アーサー・コンリーなどのR&Bアーティストをフェイム・スタジオに送り込んだ。
この時期まではマッスル・ショールズ・サウンドといえば、それはフェイム・スタジオの音のことだった。だが、1966年にロジャー・ホーキンス、デヴィッド・フッド、バリー・ベケット、ジミー・ジョンソンらが独立して、自分たちのスタジオを設立した。それがマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオだ。マッスル・ショールズという名前を冠していたが、実際には彼らのスタジオは隣町シェフィールドのジャクソン・ハイウェイ3614番地にあった。周囲には何もないハイウェイ脇にぽつんとたたずむ、レンガ作りの小さなガレージのような建物だった。
アレサ・フランクリン×アトランティックがフェイムからの独立の契機に
フェイム・スタジオのセッション・ミュージシャンとして、マッスル・ショールズ・リズム・セクションあるいはスワンパーズという名前でも呼ばれていた彼らがリック・ホールから離反したのは、1967年1月に起こったとある事件をきっかけとしていた。
1967年1月24日、アトランティック・レコードのジェリー・ウェクスラーが新しく契約したアーティストとともに、マッスル・ショールズのフェイム・スタジオを訪れた。アーティストというのはコロムビア・レコードから移籍したアレサ・フランクリン。夫でマネージャーでもあるテッド・ホワイトも一緒だった。アレサはコロムビア・レコードに5年以上も在籍したが、ヒットには恵まれなかった。アトランティックに移籍しての再出発。プロデューサーのジェリー・ウェクスラーはコロムビア時代のジャズ・シンガー的な路線から脱して、アトランティック流のリズム&ブルースを彼女に歌わせようと考えた。そのために、フェイム・スタジオでの録音を企てたのだ。
ロジャー・ホーキンス以下のマッスル・ショールズ・リズム・セクションの面々は、アレサとは初対面だったが、彼女ががピアノを弾いて、歌い出すと、すぐにグルーブをつかんだ。最初に録音されたのは「貴方だけを愛して」(I Never Loved A Man (The Way I Love You))。アレサと2、3歳下の白人の若者たちが音で通じ合う仲間になるのはあっという間だった。
だが、スタッフもミュージシャンも全員が白人というアラバマ州の片田舎のスタジオに押し込まれたテッド・ホワイトはいらだっていた。そして、トランペット奏者のつぶやいた一言をきっかけにもめ事が始まった。テッドはアレサを連れて、ホテルに引き上げてしまう。事態を収拾しようと、リック・ホールがホテルの部屋を訪ねたが、そこでさらに口論が起こり、テッドとリックの殴り合いに発展した。翌朝、テッドとアレサは飛行機に乗って、ニューヨークに戻った。アレサのフェイム・スタジオ録音は最初の一日で終わってしまったのだ。
アレサはテッドの元からも失踪してしまう。だが、この事件こそが、新しいアレサ・フランクリンのキャリアの出発点になった。2週間後、姉のアーマと妹のキャロラインとともにニューヨークのアトランティック・スタジオに現れたアレサは、フェイム・スタジオでリズム録りだけが終わっていた「恋のおしえ」(Do Right Woman - Do Right Man)にピアノとオルガンをダビング。アーマとキャロラインとともに継ぎ目のないコーラス・アレンジを施した同曲を歌い上げた。自立したR&Bアーティスト、アレサ・フランクリンが誕生した瞬間だった。
2月以降のアレサのレコーディング・セッションはニューヨークのアトランティック・スタジオで行われた。フェイム・スタジオにアレサが戻ることはあり得なかった。その代わり、ジェリー・ウェクスラーはマッスル・ショールズからミュージシャンを呼び寄せた。ロジャー・ホーキンス以下のスワンパーズの面々は、その後、ニューヨークに通って、アレサと3枚のアルバムをレコーディングすることになる。
だが、1969年にはそんな状況も終わりを告げる。アトランティック・レコードがロジャー・ホーキンスたちに、マッスル・ショールズに自分たちのスタジオを持つように働きかけたのだ。それはリック・ホールのフェイム・スタジオにとっては、優秀なセッション・ミュージシャンを失うことを意味した。ホーキンスたちは独立を決心し、ホールに別れを告げ、ミュージシャンがオーナーとなる新しいスタジオ建設を進めた。1969年4月、シェールが彼らのスタジオの最初のクライアントとなり、ソロ・デビュー・アルバム『3614 Jackson Highway』をレコーディングした。
機材/ミュージシャン/レーベル 両スタジオの意地をかけた“戦争”
トム・ダウドのアドバイスを受けた当初のマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオはUNIVERSAL AUDIOの真空管コンソールとSCULLYの8trレコーダーを備えていたようだ。同年の12月にはアルバム『スティッキー・フィンガーズ』を制作中のローリング・ストーンズが同スタジオを訪れ、「ブラウン・シュガー」を含むセッションを行った。ローリング・ストーンズのドキュメンタリー映画『Gimme Shelter』の中に、このセッション・シーンがあり、スタジオの機材なども垣間見られる。
その後、マッスル・ショールズ・サウンドはバリー・ベケットが中心となって機材のリニューアルを進め、1970年前後にはMCIのJH-16レコーダーとFLICKINGERのカスタムメイド・コンソールを導入した。FLICKINGERのコンソールはあまり知られていないが、エンジニアのダニエル・フリッキンガーがオーダーに応えて製作したもので、マッスル・ショールズ・サウンド以外にもスライ・ストーンやアイク・ターナーなどに25台ほどが納品されている。その心臓部はSPECTRA SONICS製のオペアンプだったという。
マッスル・ショールズ・サウンドはさらに1973年ごろにはレコーダーを24trのMCI JH-114に替え、それに合わせて、MCI JH-416(プロトタイプのJH-416A)コンソールを導入したようだ。同じころにはリック・ホールのフェイム・スタジオもMCI JH-400シリーズのコンソールを導入している。2つのスタジオは戦争状態にあり、意地をかけて、競い合っていた。
リック・ホールはドラマーのフリーマン・ブラウンを中心とするセッション・ミュージシャンのチーム、フェイム・ギャングとともに態勢を立て直していた。一方、皮肉なことに、アトランティック・レコードの勧めでスタジオを建設したにもかかわらず、マッスル・ショールズ・サウンドへのアトランティックからの仕事の依頼は少なかった。
代わりに、マッスル・ショールズ・サウンドを好んで使ったのがスタックス・レコードだった。1972年にはステイプル・シンガーズがアルバム『Be Altitude: Respect Yourself』を録音。「I’ll Take You There」がR&Bチャートのみならずポップ・チャートでも全米No.1を記録するという大成功を収めた。その強力なリズム・リフはスワンパーズというミュージシャン集団への注目を大きくかきたてた。
ただし、ステイプル・シンガーズの『Be Altitude: Respect Yourself』はマッスル・ショールズ・サウンドではミックスされていない。スワンパーズとのレコーディングの後、ミックスはメンフィスのアーデント・スタジオで行われた。ミキシング・エンジニアは若き日のテリー・マニング。ヘビーなロック的な感覚も持つマニングの感性が加わったからこそ、『Respect Yourself』の大成功はあったとも言える。
大きな転機となったポール・サイモンとの共作
ミュージシャンたちが見よう見まねでスタジオ業務を始めたマッスル・ショールズ・サウンドはプロフェッショナルなサウンド・エンジニアを欠いていた。そこでロジャー・ホーキンスたちはフェイム・スタジオからエンジニアを引き抜いた。ジェリー・マスターズだ。
といっても、ジェリー・マスターズももともとはミュージシャンだった。メンフィスのクラブで演奏していた彼は1970年に友人のトラヴィス・ウォーマックからレコーディングの誘いを受けた。フェイム・スタジオでのクラレンス・カーターの録音だった。マスターズがベースを弾いたクラレンス・カーターの「Patches」はポップ・チャートの4位に昇るヒットとなり、グラミーの最優秀R&B楽曲賞を受賞した。マッスル・ショールズを気に入ったマスターズはメンフィスから拠を移したが、リック・ホールはベース奏者なら何人も抱えていた。そこでマスターズはフェイム・スタジオでエンジニア修行を始めた。
2年後の1972年、そのマスターズをマッスル・ショールズ・サウンドが引き抜いた。そのころにはマッスル・ショールズ・サウンドはロック・アーティストの仕事が増えていた。ジミー・ジョンソンがプロデュースしたアラバマ出身のロック・バンド、レイナード・スキナードが成功を収め、ライ・クーダー、トニー・ジョー・ホワイト、J・J・ケイルといったアーティストが南部的なサウンドを求めて、マッスル・ショールズ・サウンドにやってきた。
さらに大きな転機となったのは1973年のポール・サイモンとのレコーディングだった。スワンパーズのリズム感覚に惹かれたサイモンは2ndソロ・アルバム『ひとりごと』(There Goes Rhymin' Simon)の半数の曲で彼らを起用した。そのセッションにはプロデューサーのフィル・ラモーンも同行した。「僕のコダクローム」(Kodachrome)や「Loves Me Like a Rock」「Take Me to the Mardi Gras」といったヒット曲を生み出したこのセッションで、マスターズは自分たちにもポップ・レコードが作れるのだと実感したという。
『ひとりごと』のレコーディング時にはマッスル・ショールズ・サウンドはまだFLICKINGERのコンソールだったと思われる。MCI JH-416コンソールを導入し、24tr環境になったマッスル・ショールズ・サウンドの音を象徴するのは、翌年のドニー・フリッツのアルバム『Prone To Lean』だろう。アラバマ州出身のソングライターでセッション・ミュージシャンだったフリッツのソロ・デビュー・アルバムを、スワンパーズ周辺のミュージシャンが総出で応援している。スワンプ・ロックの名盤、まさしくマッスル・ショールズ・サウンドの結晶のような一枚だ。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima