QUAD EIGHTの魅力はクリアと力強い野性味の両立
マイク・プリアンプとイコライザーを一体化したチャンネル・モジュールという概念をアメリカにおいて一般化させたのはQUAD EIGHT/ELECTRODYNEだったとされる。ビンテージNEVEのそれと同じように、QUAD EIGHT/ELECTRODYNEのチャンネル・モジュールはラック化されて、現代でも使い続けられている。音質的にはNEVEとAPIの間のようなサウンドと言われることが多い。
日本では筆者の友人でもある臼井ミトン氏が熱烈な愛用者で、QUAD EIGHTのMM71、MM310、MM405、さらにはベアズヴィル・スタジオ用にカスタマイズされたMM310を所有している。QUAD EIGHTを好む理由を聞いてみると、「明瞭さと野太さを高いレベルで両立している。ビンテージNEVEのように角を取って太くするのではなく、トランジェントの鋭さやクリアさを保ちつつ、線の細い感じにはならず、力強い野生味がある」という答えだった。
東海岸ではベアズヴィル・スタジオが1970年代前半にQUAD EIGHT/ELECTRODYNEのコンソールを使用して、数多くの名盤を残したスタジオとして記憶されるが、西海岸で伝説を残すスタジオといえば、ヴィレッジ・レコーダーが挙げられる。スティーリー・ダンの初期のアルバムがレコーディングされたスタジオだ。マルチトラックを縦横に駆使したスティーリー・ダンのプロダクション手法は、現在でもしばしば参照されるが、彼らが飽くなき実験を繰り返し、驚異的なポップ・ミュージックを生み出したのが、ロサンゼルスのサンタ・モニカにあったヴィレッジ・レコーダーだった。
ヴィレッジ・レコーダーを有名にしたスティーリー・ダン
ヴィレッジ・レコーダーは1968年にジョージ・ホーメルによって設立された。ホーメルは食肉産業のホーメル・フーズの創始者の孫で、1950年代からテレビ番組などの音楽を手掛けるミュージシャンだった。スタジオの建物はもともとは1920年代にフリーメイソンによって建てられた寺院で、1950年代には映画館となり、1960年代にはマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーがレクチャーに使うメディテーション・センターだったという。ホーメルは12万5千ドルを投じて、それを先進的なレコーディング・スタジオに改造した。しかし、音楽産業の中心地であるハリウッドからは距離のあるロケーションゆえに、開設当初のヴィレッジ・レコーダーは人気のあるレコーディング・スタジオとは言い難かったようだ。
そのヴィレッジ・レコーダーを一躍、有名にしたスティーリー・ダンのドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーは、もともとは東海岸出身のミュージシャンだった。ニューヨーク州アナンデール・オン・ハドソンの大学で知りあった二人は、1969年からニューヨークでセッション・ミュージシャン〜ソングライター・チームとしての活動を始めた。だが、小さな仕事を幾つか得ただけで、成功には程遠かった。
このニューヨーク時代に彼らの才能を見出したのが、映画会社のアヴコ・エンバシーの音楽制作部門で働いていたゲイリー・カッツだった。1969年にロサンゼルスに移り、ABCダンヒル・レコードでA&Rとしての職を得たカッツは、ママス&パパスやスリー・ドッグ・ナイトなどの制作にかかわった後、1971年にフェイゲンとベッカーをロサンゼルスに呼び寄せ、ソングライター・チームとしてABCダンヒルと契約させた。だが、フェイゲンとベッカーの癖のある曲作りはポップ志向の強いABCダンヒルの求めるものとは開きがあり、ソングライター契約は半年で破棄の憂き目に合う。
そこでカッツはフェイゲンとベッカーにさらに手を差し伸べた。バンドとしてABCダンヒルと契約し、自分たちでヒット曲を出すように求めたのだ。バンドを結成するために、フェイゲンとベッカーはニューヨークの友人たちに声をかけた。ギタリストのジェフ・バクスター、ダニー・デイアス、ドラムスのジム・ホッダー。これがスティーリー・ダン誕生のストーリーだ。
ニューヨークではチャンスをつかめなかったミュージシャンたちが、ロサンゼルスに移住し、ABCダンヒルの社内スタジオでデモ作りに明け暮れる。それが当初のスティーリー・ダンの姿だった。そのABCダンヒルのスタジオで働いていたのが、後に20世紀を代表するレコーディング・エンジニアの一人となるロジャー・ニコルズだ。
もう一人のスティーリー・ダン=“不死身のエンジニア”ロジャー・ニコルズ
ロジャー・ニコルズは1944年にカリフォルニア州オークランドで生まれている。1957年に家族とともにカリフォルニア州ランチョクモンガに移ったニコルズは、高校でフランク・ザッパと同級生になった。ジャンクなパーツを組み合わせて自作したテープ・レコーダーで、ニコルズがザッパのデモ録音を手伝ったこともあったという。
オレゴン州立大学で核物理学を学んだニコルズは、1965年にサンオレノフ原子力発電所に就職。1968年までそこで働くが、その傍ら、ロサンゼルスの西にあるトーレンス市で、友人とともにプライベートなレコーディング・スタジオを作り上げた。ガレージを改造したスタジオに、4trレコーダーを備え、ハイスクールのバンドなどを録音するサイド・ビジネスを始めたのだ。このスタジオを訪れたアマチュア・ミュージシャンの中には、カレン・カーペンターやラリー・カールトンもいたという。
その後、オーディオ機器の輸入なども手掛けるようになったニコルズは、ABCダンヒルのチーフ・エンジニアだったフィル・ケイと知り合い、ケイの誘いで1970年からABCダンヒルのメインテナンス・エンジニアとなった。理系のニコルスの興味は音楽よりも機材や技術にあった。だが、ゲイリー・カッツがある日、レコーディング・エンジニアが誰もやりたがらない仕事をニコルズに頼み込んだ。それがフェイゲンとベッカーのデモ録音だった。
これはスティーリー・ダンの結成前、フェイゲンとベッカーが他のアーティスト用に書いた曲のデモ録音だったようだが、フェイゲンとベッカーはニコルズとすぐさま意気投合する。どれだけ時間がかかっても気にかけない完全主義者であるところが共通したのかもしれない。
1972年、ABCダンヒルの社屋の地下にあった狭いスタジオを脱け出したスティーリー・ダンとニコルズは、ヴィレッジ・レコーダーのスタジオAでデビュー・アルバム『キャント・バイ・ア・スリル』のレコーディングを始めた。そこに置かれていたコンソールはMM71モジュールを使ったQUAD EIGHTの2082というモデルだった。インプットは20ch、アウトプットは8ch。この時点ではヴィレッジ・レコーダーのレコーダーは16trだったようだ。
このQUAD EIGHT 2082はスティーリー・ダンの1973年のセカンド・アルバム『エクスタシー』(Count Down To Ecstacy)の裏ジャケットに見ることができる。5人のメンバーがコンソールの前に居るが、よく見ると6人目の手が写っている。コンソールの下に隠れたロジャー・ニコルスが手だけをのぞかせているのだ。彼がスティーリー・ダンの6人目のメンバーだったことを言い表すような写真だ。スティーリー・ダンはニコルズに“The Immortal”というニックネームを与えた。“不死身”という意味だが、そのくらい不眠不休のセッションにも耐え抜くエンジニアだったからだろう。
22歳でディラン『プラネット・ウェーヴス』を任されたロブ・フラボーニ
ヴィレッジ・レコーダーはもう一人、重要なレコーディング・エンジニアを生み出している。ボブ・ディラン、ザ・バンド、ローリング・ストーンズなどに貢献したロブ・フラボーニだ。1951年生まれのフラボーニは、南カリフォルニア育ち。10代のころにハリウッドまでヒッチハイクして、ゴールドスター・スタジオに入り込み、フィル・スペクターのセッションを見学する経験を持っていたという。1971年にニューヨークに移り、専門学校でオーディオ・エンジニアリングを学びつつ、レコード・プラントでアシスタントの仕事に就いたが、1972年にそのフラボーニをジョージ・ホーメルがスカウト。ヴィレッジ・レコーダーのメインテナンス・エンジニアの職を与えた。フラボーニのヴィレッジ・レコーダーでの最初の仕事はスタジオCにQUAD EIGHTのコンソールを設置することだった。
翌年にはフラボーニはレコーディング・エンジニアとしてビッグ・プロジェクトを任される。ボブ・ディランのアルバム『プラネット・ウェイヴス』だ。ザ・バンドとのスタジオ・ライブ・レコーディングを望んだディランは、ヴィレッジ・レコーダーのスタジオAを選び、1973年11月の6日間でアルバムを完成させた。フラボーニはそのレコーディング〜ミックスを担当し、最終的にはアルバムのプロデューサーのクレジットを得た。このとき、フラボーニはまだ22歳だった。レコーディングは16trで、残された写真からコンソールはやはりQUAD EIGHT 2082だったことが分かる。
ニール・ヤング最大のヒット作『ハーヴェスト』とクォドラフォニック
ボブ・ディランの『プラネット・ウェイヴス』も鮮烈なサウンドだが、QUAD EIGHTコンソールで録音されたアメリカン・ロックの代表作を一枚挙げるとしたら、それはニール・ヤング『ハーヴェスト』以外にはないだろう。1972年に発表されたこのアルバムはニール・ヤングの最大のヒット作で、現在までに800万以上を売り上げている。2022年には50周年記念のボックス・セットが発売されたことも記憶に新しい。
『ハーヴェスト』は偶然に導かれて、制作されたアルバムだった。1971年2月、ニールはジョニー・キャッシュのテレビ・ショウのためにナッシュビルに赴いた。ジェイムス・テイラー、リンダ・ロンシュタットとともに番組出演を終えたニールはその晩、ナッシュビル在住のミュージシャンやエンジニアと交流を持った。そこで出会ったのがエンジニア/プロデューサーのエリオット・メイザーやカントリー系のスタジオ・バンド、エリアコード615の面々だった。
1941年にニューヨークで生まれたエリオット・メイザーはプレステージ、カメオ・パークウェイなどのレーベルで働いた後、ナッシュビルに移り、クォドラフォニック・スタジオに参加した。同スタジオはエリアコード615の中心メンバーだったデヴィッド・ブリックスとノーバート・パットナムが建設。二人は1970年にリンダ・ロンシュタットのレコーディング・セッションで顔を合わせたメイザーをそこに引き込んだのだった。
クォドラフォニック・スタジオに導入されたのもMM71モジュールを使ったQUAD EIGHT 2082コンソールだった。ニールはオープンしたばかりの同スタジオで、メイザーの集めたナッシュビルのミュージシャンとセッションした。エリアコード615のドラマーのケネス・バトレー、ベーシストのティム・ドラモンド、スティール・ギタリストのベン・キース。メイザーの人選は完璧で、音を出した瞬間から彼らはニール・ヤングの新しいバンドとして機能。2月8日に行われた2日目のセッションでは、ニールの最大のヒット曲となる「孤独の旅路」(Heart Of Gold)がレコーディングされることになった。同曲にはナッシュヴィル滞在中のジェイムス・テイラーとリンダ・ロンシュタットもコーラスで参加した。
ケネス・バトレー、ティム・ドラモンド、ベン・キースの3人にジャック・ニッチェのピアノを加えたバンドをニールはストレイ・ゲイターズと名付けた。そして、カリフォルニア州レッドウッドにある牧場に彼らを招き、レコーディングを続けた。後にニールはそこにブロークン・アロウ・スタジオを建設するのだが、『ハーヴェスト』のセッションでは納屋に楽器を運び込んで演奏し、その外に置かれたトラックにクォドラフォニック・スタジオと同じQUAD EIGHTコンソールと3Mの16trレコーダーを運び込んで録音した。
2022年に発売された『ハーヴェスト(50thアニヴァーサリー・エディション)』には当時、記録映画として制作されたが、未発表に終わっていた『ハーヴェスト・タイム』のDVDが含まれていて、この納屋でのセッションを仔細に見ることができる。メイザーが納屋の外に2本のAKG C12マイクを立てて、バンド・サウンドが周囲の丘から跳ね返ってくるエコーを拾っているなど、驚くべきシーンが連続する。スティーヴン・スティルス、デヴィッド・クロスビーとのコーラス録音は、ロータリー・フェーダーの古めかしいコンソールが置かれたニューヨークのスタジオで行われていたり、アルバムのクレジットにはない新事実が発見できたりする。
『ハーヴェスト』はナッシュビルのクォドラフォニック録音が4曲、牧場の納屋での録音が3曲、ロンドンでロンドン・シンフォニー・オーケストラとともに録音した曲が2曲、ライブが1曲という構成になっているが、クォドラフォニック録音は極めてハイファイで、リバーブを配したタイトなサウンドだ。対して、納屋での録音は被りの多いワイルドなバンド・サウンドで、同じバンド、同じエンジニア、コンソールまで同じなのに、対照的な仕上がりになっているのが面白い。メイザーは『ハーヴェスト』以後、ニール・ヤングが最も信頼を置くエンジニアとなり、長く行動を共にすることになった。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima