グールドが語った“モンタージュ”としてのレコードと共同制作者への敬意
グレン・グールドのように一切のコンサート活動を拒絶し、レコーディング・スタジオで演奏することを選び取った演奏家は、クラシック音楽の世界では例を見なかった。だが、コンサートを辞めたグールドは聴衆とのコミュニケーションを閉じたわけではなかった。彼は著作、講演、ラジオ番組などを通じて、録音芸術の価値について、聴衆に語りかけた。それは生涯を通じて、グールドの活動の重要な側面となった。
なぜ、グールドは録音芸術の価値について、かくも積極的に語り続けなければならなかったのか。そこには彼が抱えたアンビバレンツが見え隠れもしている。
フィル・スペクターやブライアン・ウィルソンのようなポップ・ミュージシャンには、ことさら録音哲学を語らねばならない理由は無かった。なぜなら、彼らがレコーディング・スタジオでの尋常ならざる作業に没入していることは、誰の耳にも明らかだったからだ。彼らのレコード盤に聴けるインポッシブル・サウンド、それ自体が従来の音楽の枠には収まりきらない録音芸術の存在を雄弁に語っている。
だが、クラシック音楽の演奏家であるグールドのレコードはそうではなかった。グールド自身が明かさねば、人々はそれが綿密なテープ編集の産物であるとは気が付かない。グールドが弾いたままのピアノ演奏がレコード盤には刻まれていると信じてしまう。
グールドはしばしばレコード制作と映画制作を重ね合わせて語った。演劇と映画の関係をコンサートとレコードの関係になぞらえ、レコード制作は演奏者とプロデューサー、エンジニア、テープ編集者などとの共同作業である点でも、映画の集団作業と共通点があるとした。
しかし、映画が俳優だけでなく、監督やカメラマンとの共同作業であることは周知されているし、映画が数多くのカット割りで構成される、グールドが言うところの“モンタージュ”作品であることも誰の目にも明らかだ。対して、グールドのレコードにテープ編集の跡を見出すことは難しい。プロデューサーやエンジニア、テープ・エディターといった共同制作者達が優秀であればあるほど、テープ編集の痕跡は消え、グールドがワンテイクで録音したかのような、自然なピアノ演奏がレコード盤から流れ出す。
故に、グールドは自分のレコードも“モンタージュ”であるということを語らねばならなかった。共同制作者たちへの敬意を示すためには、彼らがどれほど見事に姿を消しているかを聴衆に教えねばならなかったのだ。
1991年に春秋社から刊行された『グレン・グールド大研究』という書籍の中に、グールド自身の象徴的な言葉がある。グールドの死後の1983年、『High Fidelity』誌に掲載された「ぼくにとってレコーディングとは何か」という文章の冒頭で、グールドはこう述べている。
「レコーディングされたものに払い得る最高の敬意とは、レコーディングの過程とレコードを作った人の形跡、あるいは痕跡がすべて消されるようなやり方で作られたのを認めることだと思う」
この一文の後にグールドはこうも付け加える。
「いや、言い直します、レコードを作った人たちの、です」
レコード制作は共同作業であること、そして、自分以外の“レコードを作った人たち”は仕事の痕跡を完ぺきに消しているが、そのことにこそ自分は敬意を払わねばならない、ということをグールドは言っているのだ。
この文章内にはほかにも示唆に富む言葉がある。「レコーディングされたものの、ほんとうに大切なことは何かと聞かれれば、聴き手を音楽に、あるいは音楽以外のものかもしれないけど、とにかくその録音したものに没頭させる。しかも外部からのレコーディングに関するさまざまなデータ、つまり参考資料、準備、演奏、ミキシング、編集などのすべてを聴き手の意識から取り除いて、没頭させるというユニークな能力だと思う」とグールドは書いている。録音されたサウンドそのものに聴き手を没入させるようなレコードをグールドが理想としていたことがよく分かる。
さらに、文章の最後ではグールドは“創造的な聴き手”が未来の新しいつながりを生み出すとも言う。
「レコーディング・スタジオで行われた仕事はその創作品がプレスされ、工場から送り出された時点で終わるとは限らない。いや、それどころか、それ以降にこそ、まるでどうなるか考えも及ばない結果を生み、どこまで広がるかわからぬほど分岐していく」
これは“創造的な聴き手”が演奏家やプロデューサーやエンジニアの想像を超えたレコードの聴き方をすること、そこから二次的な創作品を生み出すことも示唆しているようだ。あたかも、ヒップホップ以後の音楽の在り方を予言しているようにも映る。
マイルスのプロデューサーに就任したテオ・マセロのひそかなテープ編集
この文章はコロムビア・マスターワークスが社内ビデオを作る際に、その台本とすべく、グールドが“レコーディングとは何か”という質問に答えて、書いたものだという。プロデューサーやエンジニアの存在を意識したメッセージになっているのは、それも理由だろう。そして、グールドがこのような録音哲学を積極的に語っていたことは、コロムビア・レコードの他部門にも少なからず、影響を及ぼしたのではないかと思われる。
以前にも触れたが、マイルス・デイビスのプロデューサーとして名高いテオ・マセロは、グールドがコロムビアと契約し、『ゴールドベルク変奏曲』をレコーディングした翌年の1956年に、ジョージ・アヴァキアンの誘いを受けて、テープ・エディターとしてコロムビア・レコードで働き始めている。テオ・マセロは1925年10月30日生まれ、ニューヨーク州グレンズ・フォールズ出身で、1948年にジュリアード音楽院に入学。作曲家のヘンリー・ブラントに師事した。ブラントはチャールズ・アイヴズやアーロン・コープランドの系譜を継ぎつつ、空間性を生かしたコンポジションやオーケストレーションで知られたカナダ出身の作曲家だ。ジュリアード音楽院時代のテオはエドガー・ヴァーレーズに傾倒していたともいう。フランスのミュージック・コンクレート派なども視界に入っていたかもしれない。
1953年のジュリアード卒業後はサックス奏者として、チャールズ・ミンガスのグループなどで活動。コンポーザー、アレンジャーとしても働き、リーダー作品も残したが、1957年にコロムビア・レコードに正式入社した後は、レコードの制作側に回った。1958年にジョージ・アヴァキアンがワーナーに移籍。コロムビアのプロデューサーだったカル・ランプリーをワーナーに引き抜いたため、その穴を埋める形でテオがプロデューサーに昇格したようだ。
1959年にはテオ・マセロはマイルス・デイビスの歴史的録音『カインド・オブ・ブルー』にプロデューサーのクレジットを得ている。ただし、同年の3月、4月に行われた『カインド・オブ・ブルー』のレコーディング・セッション自体はアーヴィン・タウンゼンドのプロデュースで終了していた。2014年に邦訳が出たアシュリー・カーンの著作『マイルス・デイヴィス「カインド・オブ・ブルー」創作術』によれば、テオ・マセロはセッションの終了後にタウンゼンドからアルバムのポストプロダクションを任された。だが、引き継ぎミスがあったために、オリジナルLPのB面のレーベル表記の「オール・ブルース」と「フラメンコ・スケッチ」が逆になるという失態が発生する。
1959年11月に行われたマイルスのアルバム『スケッチ・オブ・スペイン』のセッションからはテオ・マセロがプロダクションの中心となったようだ。コンポーザー、アレンジャーとしての能力も持ち、テープ編集術にも長けたマセロはマイルスの信頼を獲得していく。1961年3月録音のジョン・コルトレーンを含むマイルス・デイビス・クィンテットの最後のアルバムとなった『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』では、マイルスは彼に「テオ」という曲を捧げている。
直後の1961年4月、マイルスはサンフランシスコのブラックホークという小さなクラブで、ライブ・レコーディングを行った。4月22日と23日に2夜連続で行われたこの録音は、同年の終わりに『ブラックホークのマイルス・デイビス Vol.1』と同『Vol.2』という2枚のLPとして発売された。これらはマイルスにとって初めてのライブ・アルバムであり、『カインド・オブ・ブルー』以後のマイルス・グループの日常的な演奏の在り方を知る上でも貴重な音源だが、この2作の制作にあたって、テオ・マセロはかなりテープ編集を使ったとされている。
このブラックホークでのセッションは2003年にコンプリート版が発売された。オリジナルLPは各6曲入りだったが、『コンプリート・ブラックホーク』と題されたCD4枚組は29曲入り。2夜のセッションがそのまま聴けるということで評判を呼んだ。ところが、聴き比べてもオリジナルLPに収録された12曲はコンプリート版でも演奏自体に違いは無い。ということは、オリジナルLPでも異なるテイクをつなぎ合わせるようなテープ編集は無かったようにも思われる。
だが、注意深く聴いてみると、中にはいぶかしい曲もある。『Vol.2』に収録されていた「ネオ」は、『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』収録の「テオ」と同じ曲で、6/8拍子のラテン・ビートを持つ。だが、ライブ・バージョンの「ネオ」は途中でテンポが減速する。名手、ジミー・コブのドラミングがこんなタイム感が揺れるだろうか。4月23日のブラックホークではこの曲が複数回、録音されていて、テオ・マセロがそれらをつなぎ合わせてOKテイクを作ったのかもしれない。
イギリスのジャズ評論家、ブライアン・モートンは2005年に出版したマイルス・デイビスの評伝『Miles Davis (Life & Times)』の中で、このことに触れている。リズムが不安定に感じられる個所があるのは、ドラマーのジミー・コブに問題があったからではなく、マイルスとテオが異なる演奏のセグメントを切り張りしたからだというのが彼の見立てだ。
とはいえ、グールドの場合と同じように、ほとんどのリスナーは言われなければ、テープ編集の存在に気付くことはないだろう。プロデューサーやエンジニアは、リスナーにその存在を意識させないように仕事すべきである。コロムビア30丁目スタジオの一員であるテオ・マセロも、そう考えていたのかもしれない。
映画『卒業』サントラのヒットを契機にマイルス作品でのスタジオ実験が可能に
マイルス・デイビスやビル・エヴァンスを手掛けるジャズ・プロデューサーだったテオ・マセロは、1968年に思わぬ成功をつかむ。サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」や「ミセス・ロビンソン」をフィーチャーしたチャールズ・ウェッブ原作、マイク・ニコルズ監督の映画『卒業』(The Graduate)が大ヒットし、コロムビア・レコードは急遽、サウンドトラック・アルバムの発売を考えた。だが、アルバムを構成するには曲が足りなかったため、テオ・マセロに仕事を任せた。テオはデイヴ・グルーシンのインストゥルメンタル曲を追加録音し、3日間でアルバムを完成させた。
1968年の初めに発売された『卒業』のサウンド・トラックは、全米チャートの1位を7週間キープする大ヒットとなり、200万枚を超えるセールスを挙げた。この大ヒット作のプロデューサーになったテオ・マセロはコロムビア内で大きな力を手に入れた。テオの手掛けるジャズ・レコードは、ポップやロックに比べると、限られた予算で制作されるのが常だった。だが、200万枚のヒット作で会社に貢献したテオが湯水のようにスタジオ時間を使っても、もう異を唱えるものは居なくなったのだ。
時はマイルス・デイビスの音楽がエレクトリック化を始めた時期だった。1968年の『マイルス・イン・ザ・スカイ』でエレクトリック・ピアノ、エレクトリック・ギター、エレクトリック・ベースの導入を試みたマイルスは、1969年の初めにはキーボード奏者のジョー・ザヴィヌルとギタリストのジョン・マクラフリンをグループに加え、本格的なエレクトリック路線に踏み出す。
1969年1月録音の『イン・ア・サイレント・ウェイ』はそのエレクトリック・バンドがスタジオで果てしないジャムを繰り返すさまをレコーディング。積み上げられたテープをテオ・マセロが縦横に編集して、A面/B面1曲ずつのアルバムにまとめ上げるという手法から生まれたアルバムだった。そして、そのB面に収録されたタイトル曲「イン・ア・サイレント・ウェイ」の衝撃が賛否両論を巻き起こす。そこでは、ジョン・マクラフリンのギターに導かれる冒頭の4分10秒ほどのパートが、そのまま最後にも出てくる。ミュージシャンがイントロとエンディングで同じセクションを持つ曲を演奏をしているのではない。フリーなインプロビゼーションを聴いているつもりで進んでいくと、テープ編集によって、全く同じパートが繰り返される4分10秒ほどを経験することになるのだ。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。
Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Hiroki Obara