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ブリティッシュ・インベイジョン時代のフィル・スペクターの苦闘 〜【Vol.90】音楽と録音の歴史ものがたり

「You've Lost That Lovin' Feelin'」のヒット後
ライチャス・ブラザーズが採ったスペクターへの対抗手段

 ビートルズが上陸し、4曲のシングル・ヒットを放っただけでなく、ローリング・ストーンズの「サティスファクション」がビッグ・ヒットになり、ブリティッシュ・インベイジョンの衝撃に揺れたのが、1964年のアメリカの音楽界だった。だが、同年11月に発売されたライチャス・ブラザーズの「You’ve Lost That Lovin' Feelin'」(ふられた気持ち)は、そこに全く異質な空気を投げ込むものだった。それは極めてスロー・テンポで、重厚なサウンドを持ち、シングル盤としては、どう考えても長過ぎる曲だった。故に、当のライチャス・ブラザーズ自身もヒットするとは考えていなかったという。

 

 曲は何のイントロも無しにビル・メドレーが歌い出すところから始まる。エンディングのリフレインが始まると、すぐにフェード・アウトしてしまう。これらはスペクターやラリー・レヴィンが何とか曲を短くまとめあげようとしたからだろう。それでも完成した曲は3分45秒あった。3分を大きく超える曲は、ラジオDJたちに避けられる。そこで彼らは一つトリックを思いついた。曲の長さを実際よりも短く、3分05秒とレーベル面に印刷するのだ。これを思いついたのは、レヴィンだったとされる。

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ライチャス・ブラザーズ『You've Lost That Lovin' Feelin'/There's A Woman』のレーベル。右に“Time: 3:05”と記載されている
You've Lost That Lovin' Feelin' | Discogs

 わざとミス・プリントを施したフィレスのシングル盤は現場に混乱を引き起こしたはずだが、結果的にはDJたちはその曲をかけるようになった。たぶん、番組の中でムードを変えたいときに、うってつけの曲だったからだろう。1964年12月に『Billboard』誌のHOT100に登場した「You’ve Lost That Lovin' Feelin'」は1965年2月6日、No.1に到達した。1位を続けたのは2週間だったが、その後も同年4月まで、通算16週間もHOT100の中にとどまった。これは過去の記録を塗り替えるロング・テール・ヒットだった。同曲は1999年にはBMIによって、20世紀を通じて最も多く、ラジオおよびテレビでオンエアされた曲であるとも認定されている。

 

 セールス的にも200万枚を超えるヒットとなった「You’ve Lost That Lovin' Feelin'」はフィル・スペクターのキャリアの中でも最大の成功に数えられる。ただし、それは間違い無く、バリー・マン&シンシア・ウェルズのソングライティングに負うところも大きい成功だった。同曲はその後、何百ものカバー・バージョンを生んだ名曲中の名曲だ。バリー・マン自身が1971年のソロ・アルバム『Lay It All Out』で歌ったバージョンも素晴らしいし、1980年のダリル・ホール&ジョン・オーツのカバー・ヒットで知った、1986年の映画『トップガン』の中でトム・クルーズが歌うシーンで知ったなど、世代によって同曲を知った経緯はさまざまに違いない。

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『Lay It All Out』
Barry Man
(New Design Records/1971年)
ブリル・ビルディングのソングライターだったバリー・マンのソロ作。「You've Lost That Lovin' Feelin'」のほかドリフターズに提供した「On Broadway」のセルフ・カバーも収録

 

 ライチャス・ブラザーズはムーングロウ・レコードから借りてきたアーティストだった。それ故か、「You’ve Lost That Lovin' Feelin'」がヒットした後のスペクターの動きは鈍かった。フィレスからの1965年のアルバム『You’ve Lost That Lovin' Feelin'』は、シングル曲以外はビル・メドレーのセルフ・プロデュースによる録音。その後、ライチャス・ブラザーズはジェリー・ゴフィン&キャロル・キング作の「Just Once In My Life」や1950年代の映画の主題歌だった「Unchained Melody」などをヒットさせるが、これらもプロデューサーにスペクターの名があるもの、実際には彼はほとんど貢献していないとされる。ラリー・レヴィンが居れば、グループはスタジオ作業を進めることができたし、スペクター抜きの録音でもレコードは売れ続けたのだ。

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『You've Lost That Lovin' Feelin'』
The Righteous Brothers
(Philles/1965年)
スペクター・プロデュースはタイトル曲と「There's A Woman」のシングル収録曲のみ。最新の国内版はSHM-CDで2012年にユニバーサルからリリース

 

 1965年の後半になって、スペクターはようやく彼自身がプロデュースするライチャス・ブラザーズのアルバムに着手した。だが、そのころにはグループはスペクターと縁を切りたがっていた。彼らがムーングロウとフィレスに対して訴訟を起こしたため、アルバム制作は頓挫。そこでスペクターはフィレスにテープが残っていたメドレー制作のデモ録音などをまとめ上げ、『Back To Back』というアルバムを彼自身のプロデュース作として同年12月に発売した。そこからのシングルの「Ebb Tide」(引き潮)が全米5位に上るヒットになり、アルバムもそこそこの売り上げを残した。

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『Back To Back』
The Righteous Brothers
(Philles/1965年)
「Ebb Tide」のほか「Hung On You」「The White Cliff of Dover」がシングル・カットされた。こちらも2012年にユニバーサルからSHM-CDで再発

 

 『Back To Back』の発売は当然ながら、ビル・メドレーを激怒させ、スペクターとライチャス・ブラザーズの関係は泥沼化した。裁判の終結を待たず、グループはヴァーブ・レコードと契約を結び、スペクターに対する復讐を企てた。彼ら自身がバリー・マン&シンシア・ウェルズに依頼した「(You're My)Soul And Inspiration」を録音するのだ。マン&ウェルズがその曲を渡したことは、スペクターにとっては裏切りにほかならなかったが、マン&ウェルズの側はスペクターに印税の3分の1を奪われない依頼を快く引き受けた。加えて、同曲のアレンジはジャック・ニッチェに依頼され、セッションにはレッキング・クルーの面々も参加した。1965年の暮れ、彼らの動きを察知したスペクターは何とかレコーディングを阻止しようとしたらしいが、どうにもならなかった。

 

 スペクター・サウンドを完ぺきに模倣した「(You're My)Soul And Inspiration」は、誰もが「You've Lost That Lovin' Feelin'」の続編と思う仕上がりだった。1966年2月に発売された同曲で、ライチャス・ブラザーズは2枚目の全米No.1ヒットをものにした。

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『Soul & Inspiration』
The Righteous Brothers
(Verve/1966年)
Verveに移籍しての第1弾アルバム。「(You're My)Soul And Inspiration」はスペクターのウォール・オブ・サウンドを模したものだった。最新日本盤は2017年にオールデイズ・レコードからリイシュー

 

モータウンとの対比で分かる
フィレス運営の問題点とは?

 この音楽的な復讐がスペクターに与えたダメージは深かった。それはフィレスとアーティストとの関係を象徴する出来事でもあった。ロネッツと同じく、ライチャス・ブラザーズもフィレスからの最初のシングルが成功のピークとなった。スペクターがその気になったときにはとてつもない一曲が生まれるが、そのスパークは瞬間的で、アーティストとともに歩んでいくレーベルではない。それがフィレスの限界であり、同じくソングライターからレーベル・プロデューサーへと転じていったベリー・ゴーディのモータウンとは対照的なところでもあった。

 

 2020年に国内公開された映画『メイキング・オブ・モータウン』を見ると、ゴーディが彼を超えていく才能に、レーベルの未来を託していったことがよく分かる。スモーキー・ロビンソンしかり、マーヴィン・ゲイしかり、スティーヴィー・ワンダーしかり。マーヴィン・ゲイが自力で作り上げた1970年の「What’s Going On」(ホワッツ・ゴーイン・オン)を聴いて、ゴーディーはひどい代物だと発売を止めようとした。だが、映画の中では、自分が間違っていたこと、「What’s Going On」こそがその後のモータウンを形作るきっかけとなったことを笑って、認めている。

映画『メイキング・オブ・モータウン』(2019年、日本公開2020年)のトレイラー。創業者ベリー・ゴーディとスモーキー・ロビンソンがモータウンの歴史と名曲誕生秘話を語る。6月2日にインターフィルムよりBlu-rayが発売

 対して、スペクターは才能あるほかの誰かが自分と肩を並べることを嫌った。ビートルズやローリング・ストーンズのみならず、1960年代半ばに登場してきたロック・バンドの多くは、フィル・スペクターのプロダクションに強い憧憬を抱いていた。スペクターにプロデュースしてほしいと望むバンドも後を絶たなかった。デビュー前のヤング・ラスカルズやラヴィン・スプーンフルからも打診があったそうだ。スペクターは彼らのライブに足を運び、ラヴィン・スプーンフルとは契約の直前まで行ったというが、結局、最後の決断ができなかった。フェリックス・キャヴァリエやジョン・セバスチャンは、スペクターと仕事するには、自立したアーティスト性を備え過ぎていたからかもしれない。

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ヤング・ラスカルズは、写真左から順にフェリックス・キャバリエ(vo、k)、エディ・ブリガッティ(vo、perc)、ディノ・ダネリ(ds)、ジーン・コーニッシュ(g)で結成。1968年にラスカルズに改名する(写真は1969年撮影)。1972年の解散後、キャバリエはソロでの活動のほか、ローラ・ニーロなどのプロデュースも手掛けてきた

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ラヴィン・スプーンフルは、ジョン・セバスチャン(vo:前列右)とザル・ヤノフスキー(g:前列左)を中心に結成。1965年「Do You Believe in Magic」(魔法を信じるかい?)でデビュー。1967年にヤノフスキーが脱退し、モダン・フォーク・カルテットのジェリー・イエスターを迎えた後、セバスチャンも脱退。1976年にセバスチャンはソロ・アーティストとして「Welcome Back」をヒットさせる

 ライチャス・ブラザーズとの裁判はスペクターに有利に進み、ヴァーブでの録音は契約違反だったとして、彼は数十万ドルの示談金を得たとされる。だが、スペクターは意気消沈していた。ライチャス・ブラザーズが去ったフィレスにはもうアーティストが残っていなかった。ザ・クリスタルズもボビー・シーンもダーレン・ラヴも去った後だったし、スペクターがヴェロニカ・ベネットだけを優遇することで、ロネッツも空中分解しつつあった。

 

 ロネッツのアルバム・タイトルにわざわざ“フィーチャリング・ヴェロニカ”と入れるなど、スペクターのそれはあからさまだった。だが、スペクターはプロデューサーとして、ヴェロニカを売り出すために全力を捧げているというわけでもなかった。アネット・メアラーとの離婚が成立したスペクターは、ヴェロニカと暮らし始める一方で、彼女の音楽活動をむしろ制限した。散発的なシングル・リリースやヴェロニカの参加しないツアーの結果として、ロネッツの人気は下降するばかりだったが、それはスペクターの嫉妬が原因だったと、ロネッツのほかのメンバーは考えている。ヴェロニカがスターになって、彼の手から離れてしまうことをスペクターは恐れていたのだ。

 

MFQとの短期間の蜜月が
スペクターに回想させた音楽的原点

 スペクターがロネッツやライチャス・ブラザーズのレコード制作に消極的だったのは、押し寄せる新しい時代への対応を考えあぐねていたこともありそうだ。1965年の秋に彼はようやく、自分と相性の良さそうなバンドを見つけた。それはハワイ出身のモダン・フォーク・カルテット(MFQ)だった。

 

 MFQは1962年にロサンゼルスに移り、そこでメンバー・チェンジして、サイラス・フライヤー、チップ・ダグラス、ヘンリー・ディルツ、ジェリー・イエスターから成る4人組となった。ワーナーと契約した彼らは1963年にデビュー・アルバムの『The Modern Folk Quartet』、1964年に2作目の『Changes』を発表。1965年9月にはドラマーを加えて、よりロック的な方向に踏み出そうとしていたが、そこにスペクターから声がかかった。フィレスが契約を逃したラヴィン・スプーンフルが同年8月にカマストラ・レコードから「Do You Believe In Magic」でデビュー。シングル・チャートを駆け上がっていた時期だ。似た音楽性を持つMFQとフォーク・ロックのレコードを作って、フィレスの挽回作としようとスペクターが考えたことは想像に難くない。

 

 

 MFQのためにスペクターは新鋭のソングライターから曲を仕入れた。ハリー・ニルソンだ。ニルソンは1941年のニューヨーク生まれで、スペクターと似たバックグラウンドを持つが、このころは銀行員をしながら曲を書き続けていた。1965年にレッキング・クルーの一員でもあったアレンジャーのペリー・ボトキンJr.が彼の才能を見抜き、援助するようになったが、たぶん、スペクターもそれを聞きつけたのだろう。MFQのシングル用の「This Could Be The Night」という曲はスペクターとの共作となっているが、実質的にはニルソン一人が書いたとされる。

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ゴールド・スターでフィル・スペクターを囲むモダン・フォーク・カルテットの面々。左から、サイラス・ファーヤー、ジェリー・イエスター、チップ・ダグラス、スペクター、ヘンリー・ディルツ、エディ・ホー。グループは1962年にホノルルで結成、1963年デビュー。ヒットに恵まれないまま1966年に解散。「This Could Be The Night」は当時レコード・リリースこそなかったものの、同年のコンサート映画『The Big TNT Show』のテーマ曲に起用された

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ハリー・ニルソン(1941〜1994年)は、1964年シンガー・ソングライターとしてデビュー。「This Could Be The Night」が出世作となり、業界での認知を得る。1968年フレッド・ニール作の「Everybody's Talkin'」(うわさの男)のカバーがヒット。その後、自作やカバーで多数のヒットを生み、ジョン・レノンとの共作『プッシー・キャッツ』(1974年)なども話題に

 MFQのメンバーたちとの付き合いは、スペクターにとって快適だったようだ。彼らとともにトレバドールやウィスキー・ア・ゴー・ゴーといったクラブで時代の空気を吸い、スペクター宅でのリハーサルでは一緒に楽器を演奏した。それはテディ・ベアーズ時代を思い出させるような体験だったのかもしれない。そして、ついには12弦ギターを抱えて、MFQのステージに立ち、「Spanish Harlem」などを歌うようになったという。彼が十分に魅力的な声を持つシンガーであったことは、コンピレーションの『The Phil Spector Collection』のボーナス・トラックとして収録されたスペクター本人による「Spanish Harlem」のデモ録音を聴いても分かる。

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『The Phil Spector Collection』
V.A.
(ABKCO/2006年)
スペクターのプロデュース作を集めたコンピレーション(クリスマス・アルバムとの2枚組バージョンもあり)。スペクター自身が歌唱する「Spanish Harlem」(デモ)を収録

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『The Essential Phil Spector』
V.A.
(Sony Legacy/2011年)
スペクター・プロデュース曲の2枚組コンピレーション。MFQ「This Could Be The Night」は長らく『Rare Masters 2』などのレア盤でしか聴けなかったが、こちらに収録されたことで広くオリジナル・バージョンが知られるようになった

 

 しかし、そんなMFQとの関係も1965年の冬には終わってしまった。フィレスから発表されたシングルの「This Could Be The Night」はウォール・オブ・サウンドの中にハワイアン・スティールをあしらい、ビーチ・ボーイズにも比肩するポップ性を持つ一曲に仕上がったが、スペクターとMFQの録音はそれが最初で最後だった。ライチャス・ブラザーズとのもめごとの影響もあったかもしれないが、最大の理由は1966年になって、スペクターがどうしてもレコードを作りたいアーティストを見つけたからだとされる。それはアイク&ティナ・ターナーだった。

 

フィル・スペクターとアイク・ターナー
支配者願望が相似していた両者の思惑

 1966年3月、スペクターはフィレスでの最後の賭けに出た。アイク&ティナ・ターナーとウォール・オブ・サウンドの最高傑作を作り上げるのだ。ティナ・ターナーの歌声に刺激されて、久々に彼の創作意欲は沸騰していた。

 

 最初のロックンロール・レコードの一つと考えられている1951年のジャッキー・ブレンストン&ヒズ・デルタ・キャッツの「Rocket 88」が、19歳のアイク・ターナーが率いた録音だったということは、本連載に書いたことがある(第49回:2018年2月号)。その後、アイク・ターナー&キング・オブ・リズムを率いて活動を続けた彼は、1956年にセント・ルイスのクラブでアニー・メイ・バロックという18歳の女性シンガーと出会う。キング・オブ・リズムのステージに飛び入りした彼女は、そのままグループに迎え入れられ、1958年にはターナーと結婚した。それがティナ・ターナーだ。

 

 ティナ・ターナーをフロントに据えたグループは、1960年にはアイク&ティナ・ターナーと名を変えた。同年発表の最初のシングル「A Fool In Love」はインディーズのスー・レコードからのリリースだったが、R&Bチャートで2位に、ポップ・チャートでも27位に上るヒットになった。以後、彼らは順調にヒットを出し、ライブ・アクトとしても大評判を巻き起こす。コーラス&ダンスの3人組、アイケッツを加えた彼らのパフォーマンスはテレビ映えし、それが人種を越えた人気につながった。

 

 

 スペクターも彼らをテレビで知ったようだ。ただし、彼が魅せられたのはティナであり、アイクは邪魔者にしか見えなかった。アイク・ターナーはスペクターよりも10歳近く歳上だったし、百戦錬磨のバンド・リーダーでもあった。ティナとアイクの関係は、ヴェロニカとスペクターの関係にも似通っていた。どちらも支配者であろうとするアイクとスペクターがスタジオで一緒に仕事できるとは思えない。ティナをアイクから引き離して、スタジオ入りさせることができるだろうか。

 

 ところが、交渉してみると、アイク・ターナーはすんなりとスペクターにOKを出した。アイクはロックの世界に進出して、より大きな成功を得ることを思い描いていた。スペクターとのシングルはそのきっかけになると踏んだのだ。かくして、アイク&ティナ・ターナーの所属するロマ・レコードに2万ドルを支払うことで、スペクターはティナだけを呼んで、シングルを制作する機会を手に入れた。

 

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高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。
Twitterアカウントは@kentarotakahash

Photo:Hiroki Obara

 

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