レッド・ツェッペリンの1stのステレオ・ロック・ドラム・サウンド
レッド・ツェッペリンの初レコーディング中に、ジミー・ペイジがエンジニアのグリン・ジョンズに提案し、ギター・アンプにオフマイクを立てたという話は、以前にも本連載の中で触れたことがある。ギター・アンプにオフマイクを立て、その音をミックスして録音するという手法自体は、ノーマン・スミスがビートルズのレコーディングでも試していたものだが、空間性のあるギター・サウンドの衝撃力において、レッド・ツェッペリンの1stアルバムは傑出していた。ペイジはスタジオ・ミュージシャンとしてのキャリアを積む中で、録音手法についてのアイディアを多く温めていて、ジョンズにそれを提供したようだ。
ジミー・ペイジというと、ギターはGIBSON Les Paul、アンプはMARSHALLというイメージが強いが、このレコーディング時に彼が使ったのはFENDER TelecasterとSUPROのギター・アンプだった。SUPROは1690Tという35Wのコンボ・アンプを12インチ・スピーカー×1発に改造したものだったという説が有力だ。ひずみはSUPROアンプのオーバードライブ・サウンドに加え、VOX Tone Bender MK2を使っていたようである。
グリン・ジョンズは自著『サウンド・マン』の中で、このアルバムのレコーディング中にステレオでドラム・サウンドを録音する方法を見つけたと語っている。1968年にはロック・レコードのステレオ・ミックスも洗練に向かい、各楽器がLchかRchに振り分けられることは少なくなっていた。グリン・ジョンズが同年に手掛けたローリング・ストーンズ『ベガーズ・バンケット』やスティーヴ・ミラー・バンド『セイラー』もステレオ・ミックスの進歩を感じさせる傑作だった。ただ、ドラムは左右どちらに寄っているか、モノラルっぽくセンターの奥にあることが多かった。同年のビートルズ『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』も同様だ。
ところが、レッド・ツェッペリンの1stでは、冒頭の「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」からステレオ・ワイドなドラム・サウンドが聴ける。イントロに聴こえるハイハットは右に寄っているが、センター寄りのカウベルが加わり、左寄りのフロア・タムに始まるフィル・インからドラム・セット全体がステレオ空間に展開する。
グリン・ジョンズがこのアルバムで見つけたドラムの録音手法は偶然の産物だった。『サウンド・マン』の中でジョンズはこう語っている。とある曲のベーシック・トラックを録り終えた後、彼はそれまでドラムに立てていたNEUMANN U67をアコースティック・ギターのダビングで使うために移動させた。たぶん、このベーシックを録り終えた曲というのは2曲目の「ゴナ・リーヴ・ユー」だと思われる。複数のアコースティック・ギターを使ったこの曲のドラム・サウンドはほぼモノラルだ。
ダビングが終わり、ジョンズはU67をドラム用に立て直した。それまでジョンズはドラムに3、4本のマイクを立て、モノラル・ミックスするのが常だった。だが、そのときはアコースティック・ギターに使ったU67のワイアリングを戻すことを忘れていた。次の曲のベーシック録音では、U67は左奥に定位する別チャンネルに録音されてしまったのだ。
プレイバックを聴いて、グリン・ジョンズはそのことに気づいた。ミキサー上で左奥に定位していたU67のフェーダーを上げると、ドラムスは左に寄った。そこでジョンズはいっそパンを左右に開いたら、どうなるだろう?と考えた。2本のU67をそれぞれ左右に定位させて、ステレオのドラム・サウンドが録れるようなマイク・セッティングをジョンズは探った。そして、発見したのが後にグリン・ジョンズ・メソッドと呼ばれるようになるドラム・セットの録音手法だ。
3本のマイクでドラム全体を捉えるグリン・ジョンズ・メソッド
グリン・ジョンズ・メソッドではドラム・セットに3本のマイクを立てることを基本とする。1本はキックに。2本目はオーバーヘッドで、スネアやハイハットの上方に立てる。3本目はフロア・タムの外側の低い位置からハイハット方向を狙って立てる。この2本目と3本目のマイクは同じマイクを使う。そして、スネアの打面からの距離を等しくする。こうすると、2本のマイクのパンニングを左右に開いても、スネアは位相ずれしないし、同じレベルで立ち上げれば、中央に定位する。
ジョンズはレッド・ツェッペリンの1stのレコーディング中に試行錯誤して、このメソッドにたどり着いたようだ。故に全曲でそれが使われているわけではなく、「君から離れられない」(I Can't Quit You Baby)ではドラムスはLchに押し込められていたりもする。先述の「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」でもキックは左寄りだ。ドラム・セットにステレオ・チャンネルを使っても、そこまでパンは開いていないようで、1969年の『レッド・ツェッペリン II』と聴き比べると、ステレオ感にはかなりの差がある。しかし、このアルバムがロック・レコードに聴けるドラム・サウンドのターニング・ポイントになったことは間違いない。
ちなみに、筆者の経験を話すと、グリン・ジョンズ・メソッドについて知ったのは20年以上前だった。メジャーなレコーディング・スタジオでリズム・セクションのレコーディングをして、ハウス・エンジニアにお任せでマイキングしてもらうと、ドラムの周囲に10本ものマイクが立っていた。だが、マイクの本数が多いと位相差の問題が起きて、サウンドは細くなるのに気づいた。
もっと少ない本数でドラムにマイキングできないのだろうか?そう思っていたら、グリン・ジョンズ・メソッドなるものを知った。AUDIO-TECHNICAのキック用マイクと2本のSONY C-38Bでそれを試してみたら、十分にバランスしたドラム・サウンドが録れることが分かった。3本で位相や定位の乱れなく、バランスするセッティングを作った上で、足りないものを足していく。スネアのアタック感や音色を作るために1本。シンバル用にも1本、キックのオフマイクも、といった具合に。以来、ロック・ドラムの録音ならば、自分でマイキングが組み立てられるようになった。
実はレッド・ツェッペリンの1stでも、ジョンズは4本目のマイクとして、スネアにBEYERDYNAMIC M160を立てていたと、同録音でアシスタントを務めたロジャー・クエステッドは語っている。クエステッドはモニター・スピーカーで名高いQUESTEDの創始者だが、オリンピック・スタジオのアシスタント出身で、同スタジオで最初に経験したのがレッド・ツェッペリンの録音だったのだという。
筆者が試し始めたころには、グリン・ジョンズ・メソッドという言葉はさして知られていなかったと思われる。2本のマイクのスネアからの距離を等しくするために、巻尺を使って測っていたりすると、物珍しく見られたものだった。だが、昨今はグリン・ジョンズ・メソッドで検索すると、多くのチュートリアルが見つかる。YouTubeでの実演映像も多い。エンジニア上がりではないミュージシャンやトラック・メイカーなどが、自分でマイキングして、ドラム録音をすることが多くなったからかもしれない。
ただし、『サウンド・マン』の中でジョンズは、YouTubeでは巻尺でスネアからの距離を測っている人が多いが、自分はそんなことはしなかった。そんな厳密なものではなく、ドラマーの演奏に合わせて、耳で調整するものだと述べている。
大物ミュージシャンが個人で購入したHELIOSコンソール
ロジャー・クエステッドは、レッド・ツェッペリンの1stは8trで録音されたと証言しているから、このころにオリンピック・スタジオには3Mの8trが導入され、コンソールも24インプット/8バスに拡張されたようだ。ブリティッシュ・ロックの最重要拠点として、オリンピック・スタジオの評判はさらに高まり、そのブッキングは容易ではなくなっていた。そこに不満を覚えていた一人がアイランド・レコードのクリス・ブラックウェルだった。
アイランド・レコードの創始者であるクリス・ブラックウェルはジャマイカ出身で、1959年にジャマイカでレーベルを興した後、1962年にはロンドンにオフィスを構え、英国でのジャマイカン・ミュージックのプロモートを始めた。1964年にはミリー・スモールの「マイ・ボーイ・ロリポップ」を大ヒットさせて、ジャマイカのスカ・ミュージックを世界に知らしめた。この「マイ・ボーイ・ロリポップ」のボーカル録音でエンジニアを務めたのが、IBCスタジオ時代のグリン・ジョンズだったそうだ。
トラフィック、ジェスロ・タル、スプーキー・トゥースなどと契約しして、ロック界にも進出したアイランド・レコードは、1968年に自社スタジオの建設に入る。クリス・ブラックウェルはオーディオ・クオリティにも強いこだわりを持っていた。そこにアドバイスを与えたのがグリン・ジョンズだった。オリンピック・スタジオのコンソールの音質に惚れ込んでいるブラックウェルに、ジョンズはそれならばディック・スウェットナムを独立させて、コンソール・メーカーを作らせたらどうだろう、と進言したのだ。
ブラックウェルが資金を出して、コンソール・メーカーを立ち上げるという計画にスウェットナムは乗った。そして、スタートしたのがHELIOSだった。
HELIOS ELECTRONICSはまずベイジング・ストリートのアイランド・スタジオのためにカスタム・コンソールを製作。ローリング・ストーンズのためにカスタム・コンソールを積んだモバイル・スタジオも作り上げた。
このアイランド・スタジオやローリング・ストーンズのモバイル・スタジオのHELIOSコンソールに入っていたのが、Type 69と呼ばれるプリアンプ/EQセクションだ。Type 69モジュールは2000年代にアメリカで再興されたHELIOSからリイシュー版が出た後、WAVESやUNIVERSAL AUDIOからプラグインも登場したから、ご存じの方も多いだろう。
オリンピック・スタジオのコンソールの魅力を知っていたロック・ミュージシャンたちは、次々にHELIOSコンソールを注文した。ビートルズのアップル・スタジオ、ザ・フーが所有するランポート・スタジオもHELIOSコンソールを導入。エリック・クラプトンはType 69を装備した小型のコンソールをサリー州リプリーにある自宅用にオーダーした。ここからミュージシャンが個人でそれを所有する流れも始まる。Black Heliosの愛称でも呼ばれたエリック・クラプトン所有の小型コンソールは、1973年にC73コンソールとして製品化された。そのカタログの表紙には、クラプトン宅の駐車場に置かれたBlack Heliosの写真が飾られている。
クラプトンに続いては、ポール・マッカートニー、ピート・タウンゼンド、スティーヴ・ウィンウッド、スティーヴ・マリオット、アルヴィン・リー、スティーヴ・ミラー、レオン・ラッセルといったミュージシャンが自宅スタジオにHELIOSを購入。1973年にフェイセスを脱退したロニー・レインは、アメリカ製AIRSTREAMトレイラーにBlack Heliosと STUDERの8trを載せて、ロニー・レインズ・モバイル・スタジオという移動スタジオを作り上げた。このモバイル・スタジオはロニー・レイン自身のアルバムだけでなく、エリック・クラプトン『Eric Clapton's Rainbow Concert』、レッド・ツェッペリン『フィジカル・グラフィティ』などのアルバム制作に使用されたことでも知られる。
Black Heliosはコンソールの形で現存しているものは数少ないと思われるが、その1台は日本に置かれている。ハイエンド・ケーブルの製作でも知られるWAGNUS.のスタジオが所有していて、筆者も見学させてもらったことがある。オーナーとともに資料や写真を検討していくと、それはエリック・クラプトンが所有していた2台のBlack Heliosのうちの1台をリビルドしたものであると、ほぼ確信することができた。コントロール・セクションは1973年のカタログ表紙にあったクラプトン所有のC73コンソールと全く同一だ。
実を言うと、筆者もクラプトン所有のBlack Heliosから引き抜かれたとされるプリアンプ8ch分を所有している。BOUTIQUE AUDIOのイアン・ガーディナーがラッキングしたものだが、本当にクラプトン所有だったかどうかは分からないとしても、上記のミュージシャンの誰かが所有していたコンソール由来である可能性は高い。
アップル・スタジオが導入したHELIOSコンソールは、アップル・レコードの林檎マークと同じ緑色で、グリーン・ヘリオスと呼ばれた。クリス・ブラックウェルはジャマイカにもHELIOSコンソールを運び込んだ。ボブ・マーリーの1972年のアイランドからのデビュー・アルバム『キャッチ・ア・ファイア』が録音されたハリー・Jスタジオには、オリジナルのジャケットの色に近いブルーのHELIOSが置かれていた。後に10ccを結成するエリック・スチュワート、グレン・グールドマン、ケヴィン・ゴドレー、ロル・クレームらがスタジオ・ミュージシャン集団として働いていたマンチェスター郊外のストロベリー・スタジオは1974年に巨大なRed Heliosを購入した。ストロベリー・スタジオのこのRed Heliosは後にプロデューサー/エンジニアのマーティン・ハネットがジョイ・ディヴィジョン、ニュー・オーダー、ア・サーテイン・レシオといったファクトリー・レコードのアーティストのレコーディングに使用したことでも名高い。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Hiroki Obara