EMIスタジオで行われた初録音はオーディションだったのか?
ジョージ・マーティンの招きで、ザ・ビートルズが最初にアビイ・ロードのEMIスタジオに足を踏み入れたのは、1962年6月6日だったとされる。デッカ・スタジオでのセッションと同じように、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、ピート・ベストの4人は前日に楽器車でリバプールを発った。当日のセッションは午後7時から10時に設定されていた。ワンセッションは3時間というのがEMIスタジオの基本ルールだった。
アビイ・ロードのスタジオ2で行われたこの6月6日の最初のセッションがオーディションだったのか、レコーディングだったのかについては諸説が交わされてきた。ジョージ・マーティンはそれまでブライアン・エプスタインとは接触しても、ビートルズのメンバーに会ったこともなければ、演奏する姿を見たこともなかった。となれば、まずはオーディションが行われるはずだろう。
ビートルズの伝記本は数多いが、ハンター・デイヴィスが1968年に著した『The Beatles: The Authorised Biography』は唯一、ブライアン・エプスタインが公認した伝記とされている。デイヴィスはその中で6月6日のセッションはジョージ・マーティンに演奏を聴かせるオーディションだったとしている。オーディション後、ビートルズはマーティンからの連絡を待ったが、正式なレコーディングの設定はなかなかされず、7月の終わりにようやく契約の話が来たというのが公認伝記の記述だ。1985年に出版された改訂版でも、この記述は変わりない。
だが、実際にはこのセッションではレコーディングも行われていた。1995年にリリースされたビートルズの『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』には、この日に録音された「ベサメ・ムーチョ」と「ラヴ・ミー・ドゥ」が収録されている。また、EMIとビートルズは1962年6月4日付の契約書にサインしていたことが明らかになっている。ただし、この契約日については、6月6日の音源をEMIの所有とするために、レコーディングの後に日付を遡った契約書を作成したのだとする説も根強い。
マーク・ルイソンが徹底リサーチした契約の経緯
ビートルズに関する史実を日付単位で探求してきたイギリスの研究家、マーク・ルイソン(ルーイスンとも)は複数の著作の中で、この件についてのリサーチを進化させてきている。1988年の『The Complete Beatles Recording Session』(1990年に『ビートルズ/レコーディング・セッション』として邦訳)では、ルイソンもハンター・デイヴィスと同じ立場で、グループの力量を見るための“アーティスト・テスト”だったとしていた。だが、同書を発展させた1992年の『The Complete Beatles Chronicle 1957 - 1970』(邦訳は『ザ・ビートルズ ワークス』)では、EMIが公開した資料を元に、以下のような新しい見解を示した。
アードモア&ビーチウッドのシド・コールマンを介して、ブライアン・エプスタインとジョージ・マーティンが接触したのは1962年の2月13日だった。エプスタインはマーティンにビートルズのデッカ・スタジオでのオーディション音源を聴かせ、マーティンは興味を示したが、しかし、マーティンからのその後の連絡は無かった。
ところが、5月9日にロンドンに赴いたエプスタインがコールマンの後押しを得て、再びマーティンに会うと、そこでマーティンはEMIとビートルズの契約を進めることを申し出た。そして、5月18日からEMI内では契約書の準備が進められた。アビイ・ロードでのセッションの前日には、6月4日の日付で作成された契約書にエプスタインがサインを終えていて、EMI側がそれにサインすれば契約成立の状態になっていた。これらはEMIの内部文書により証明されるという。
ルイソンは2013年には初期のビートルズに焦点を当てた『The Beatles: All These Years - Tune In』(邦訳は『ザ・ビートルズ史 誕生』)を著している。リバプール時代から1962年までの数年間だけで、分厚い上下巻を構成する評伝だ。この中では5月9日のエプスタインとマーティンの会談と、マーティンが提示した契約内容についても詳しく示されている。契約内容はEMIの標準的なもので、1年に最低6曲、シングル3枚分のレコーディングをすることを確約するものだった。
この時点でマーティンはビートルズのデッカ・スタジオ録音のアセテート盤から2曲を聴いたことがあるだけだった。その2曲は「ハロー・リトル・ガール」と「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」で、前者はジョン・レノン、後者はポール・マッカートニーがリード・ボーカルを取っていた。当時は複数のリード・ボーカリストが居るバンドは珍しかったため、マーティンは誰をフロントにすべきか、ポールが適任ではないかと考えた。ルイソンはそう記述している。
当初、ポールをリーダーにすべきではないかと考えたというのは、マーティンも自伝『ザ・ビートルズ・サウンドを創った男 耳こそはすべて』の中で述べている。ただし、契約やスタジオ・セッションの経緯については、マーティンは全く違うことを語っている。6月6日のセッションはテストであり、マーティンはそこで初めて会ったビートルズに引かれたが、それは彼らの演奏や曲作りよりもジョン、ポール、ジョージに対する印象的なものだった。その後、マーティンはエプスタインに契約を申し出た。リバプールに彼らのライブを見に行って、一人のリーダーを置くようなグループではない、と考えるに至ったとしている。
ほかにもマーティンの回想とルイソンの記述には多くの食い違いがあるのだが、とりあえず、ここからは膨大な資料やインタビーから日付単位で史実を抽出してきたルイソンの見立てに沿って、6月6日当日のEMIスタジオ=アビイ・ロードでのセッションに話を移そう。
ノーマン“ハリケーン”スミスとEMIエンジニア陣
6月6日のEMIスタジオでセッションを担当したエンジニアはノーマン・スミスだった。1923年にロンドン北部のエドモントンに生まれたノーマン・スミスは、もともとはトランペットなどを演奏するジャズ・ミュージシャンで、1959年にEMIに入社している。EMIの求人は28歳までという年齢制限があったが、妻の妊娠をきっかけに定職を求めていた彼は、年齢を偽って応募し、採用された。本来はミュージシャンを志していたが、仕方なくレコード会社に入ったというのは、ジョージ・マーティンとも共通する。
ビートルズの最初のレコーディングから1965年のアルバム『ラバー・ソウル』まで一貫して、彼らのエンジニアを務めたスミスは、ポップス・マニアにはもう一つの名前でも知られている。ハリケーン・スミスだ。EMIのエンジニアからプロデューサーに昇進し、ピンク・フロイドなどを手掛けた後、スミスは自身がレコーディング・アーティストとなる。1971年にハリケーン・スミスの名で発表したシングル「太陽を消さないで」(Don’t Let It Die)が全英チャートの2位に上るヒットを記録。この曲は、もともとはビートルズが映画『ヘルプ!4人はアイドル』のサウンドトラックを制作しているときに、ジョン・レノンが“曲が足りない”と言ったことを真に受けたスミスが、ジョンが歌うことを想定して書いたものだった。
ハリケーン・スミスは1972年にも「オウ・ベイブ」(Oh, Babe What Would You Say)をヒットさせる。全英チャートでは最高3位だったが、同曲は翌年にかけてアメリカでもヒットし、『ビルボード』誌で3位、『キャッシュボックス』誌では全米No.1に輝いた。スミスは既に50代に差し掛ろうというダミ声のオヤジ。だが、ノスタルジックなメロディとユーモラスな歌唱、そしてポップスとしての完成度高いプロダクションで、予期せぬ成功を収めたのだ。
話を1962年6月6日に戻すと、その日のスタジオ2でノーマン・スミスが最初に直面したのは、ビートルズが持ち込んだアンプの問題だったとされる。ジョンとジョージのギター・アンプもみすぼらしいものだったが、最悪だったのがポールの手作りのベース・アンプで、ノイズが多くて使いものにならなかった。そこでスミスはテクニカル・エンジニアのケン・タウンゼンドを呼んだ。
タウンゼンドはその日、使われていなかった第1エコー・チェンバー・ルームのアンプとスピーカーで代用することを提案。TANNOYスピーカーとLEAKのパワー・アンプTL21を地下のチェンバー・ルームから運び出し、スタジオ2にセットアップした。タウンゼンドはTL21に楽器用のフォーン・ジャックをハンダ付けした。
この日のセッションはジョージ・マーティンのアシスタントのロン・リチャーズが仕切った。マーティンはビートルズの演奏を一度も見ていないにもかかわらず、スタジオをいきなりアシスタント任せにしたのだ。ビートルズは既にEMIと正式に契約を交わしていて、この日は1stシングルを作るためのレコーディング・セッションとして設定されていたとするマーク・ルイソンも、この奇妙さは認めている。新人バンドのレパートリーの中から、シングル用にどの曲をレコーディングするのか。A&Rのマーティンが不在の中、その判断が下されて、レコーディングが進められるなどということがあるだろうか。
6月6日のスタジオ2にはクリス・ニールがアシスタント・エンジニアとして入っていた。ニールについてはジェフ・エメリックの著書『ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実』の中でも触れられている。エメリックよりも数カ月先にEMIスタジオへ入社していたニールは情報通で、ビートルズの評判も既に知っていた。EMIスタジオにやってきた彼らを唯一、興奮して出迎えたのがニールだった。
ビートルズはスタジオ2でまず彼らのレパートリーを連続して演奏した。その中から「ベサメ・ムーチョ」「ラヴ・ミー・ドゥ」「P.S.アイ・ラヴ・ユー」「アスク・ミー・ホワイ」の4曲がレコーディングされることになった。そして、「ラヴ・ミー・ドゥ」を録音する段になって、ノーマン・スミスがニールにジョージ・マーティンを呼びに行かせたのだという。「ラヴ・ミー・ドゥ」は1962年10月5日発売の、ビートルズのパーロフォンからのデビュー・シングルとなる曲だ。自分が「ラヴ・ミー・ドゥ」の録音時にマーティンを呼びに行ったので、マーティンがビートルズと契約することになったというのがニールの自慢話だったと、エメリックは記している。
デビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」〜ジョンのハーモニカとポールの歌唱
音楽出版社のアードモア&ビーチウッドが仲介したこともあり、EMIでのセッションではエプスタインはビートルズにオリジナル曲を披露することを求めていた。そこで浮上してきたのが、ポールが16歳のころに書いた「ラヴ・ミー・ドゥ」という曲だった。「ラヴ・ミー・ドゥ」はスリー・コードの変形ブルースと言ってもいい形式で、さほどシングル向きには思えない楽曲だが、ジョンとポールはそれを1stシングルにしたいと願っていたようだ。
そこで曲をキャッチーにすべく、ジョンがハーモニカを吹くというアイディアが生まれた。ジョンは1962年の初めにアメリカのブルース・チャンネルがヒットさせた「Hey Baby」にヒントを得て、「ラヴ・ミー・ドゥ」にクロマティックのハーモニカを使ったのだという。「Hey Baby」を聴いてみると、確かにハーモニカの使用法に強い影響が聴き取れる。
6月6日のセッションの直前に、このアレンジ変更は行われたようだ。ハーモニカを吹くために、ジョンはギターを弾くことができず、一発録りの演奏ではジョージがアコースティック・ギターを弾くだけになった。だが、アビイ・ロードにやってきた時点では、ビートルズは新しいアレンジのもう一つの問題点には気付いていなかった。
それを指摘したのは、クリス・ニールに呼ばれてスタジオへ顔を出したジョージ・マーティンだった。この曲ではジョンがメイン・ボーカルのラインを歌う。だが、ブレイクした「ラヴ・ミー・ドゥ」というキメの部分では、ハーモニカのフレーズを吹き始めるため、“Love Me Do”の“Do”が歌い切れない。そこでマーティンは、そのキメの“Love Me Do”はポールが歌うように、とディレクションした。
この急な変更のため、ポールは緊張して、キメの“Love Me Do”の部分で声が震えたと語っている。確かに『〜アンソロジー1』に収録された6月6日バージョンに聴けるポールの歌唱はかなり不安定だ。
かくして、この「ラヴ・ミー・ドゥ」の録音からジョージ・マーティンとビートルズのスタジオでのコラボレーションが始まったことになる。だが、レコーディング・スタジオで仕事をしてきた経験を持つ人ならば、一つ大きな疑問が浮かばないだろうか。EMIスタジオのルールは厳格で、ワンセッションは3時間と定められていた。この日はチェンバー・ルームからアンプとスピーカーを運び出し、即席のベース・アンプにするところからセットアップが始まった。
そして、バンドはまずオーディション的に用意してきたレパートリーを演奏。その中から4曲を選んで、レコーディングすることになった。途中でジョージ・マーティンのディレクションで、アレンジの変更も行われた後に、4曲を録り終えた。果たして、これらの出来事は3時間の中に収まるだろうか。アビイ・ロードでのビートルズのファースト・セッションの逸話は、そこにも謎を残す。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。
Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Hiroki Obara