高橋健太郎
トゥーツ&メイタルズが“レゲエ”という言葉を初めて使った曲「Do The Reggay」とその後のレゲエの発展を詳述。さらに、エレクトリック・ベースのリフを軸にしたヘビーな低音への希求や独自のレコーディング・テクニックを掘り下げる。
1966年、ジャマイカ国内での音楽のメインストリームはスカからロック・ステディに移り始めた。その背景にあったテンポ・ダウンへの欲求について見ていく。
リボン・マイクの歴史をまとめました。誕生から現在に至るまでの進化を、高橋健太郎が解説。音楽の録音技術の革新を辿ります。
コクソン・ドッドと彼のスタジ・ワン・レーベルを中心に、1950年代末のジャマイカにおけるスカの大躍進とそれを支えたミュージシャンたち、ラスタ・コミュニティの果たした役割とゲットーの暴力性との融合について綴ります。
デューク・リードやコクソン・ドッドとしのぎを削ったサウンド/システム、キング・エドワーズを起点に、サウンド・システムを手掛けたエンジニアたちやその後のレーベルへの展開、ジャズ系ミュージシャンのスカへの関与という、ジャマイカ音楽の隆盛を見て…
ジャマイカで1950年代にスタジオが稼働し始め、レコードのプレスもスタートした。それに先駆けて1940年代後半にサウンド・システムが登場。スカやレゲエが登場する前、そこでかけられていた音楽は何だったのか?
1950年代にジャマイカで急発展したレコード産業と、その後の世界的な音楽への影響についてその歴史と背景を詳述。レゲエやメントを中心に、ジャマイカ音楽の独特な道のりを紹介します。
DJが生み出したニューヨーク発のディスコ・サウンドの隆盛と、ドナ・サマーのユーロ・ディスコへの波及、さらにはディスコ・ブームの凋落とその後への影響について取り上げます。
トム・モールトンが生み出したディスコ向けのエクステンドミックス。彼が12インチシングルを生み出した過程と、最初に12インチシングルを市販したサルソウル・レコードについて探求していきます。
前回のビートミックスDJの成立に続いて、今回はエクステンドミックスの起源とそれを生み出したのは、トム・モールトンを紹介。ミーコとトニー・ボンジョヴィが手掛けたディスコチャート黎明期のヒットも紹介します
1960年代にフランスからアメリカにもたらされたディスコテックとDJという言葉。そこから同一テンポでつなぐビートミックスDJの始祖、フランシス・グラッソの登場と、彼らを支えた新しいDJ機器について記していきます。
Alison Research〜Valley Peopleでポール・バフが開発したKEPEXやオートメーションシステム。これらモダンコンソールの機能を先駆けて取り入れたシグマ・サウンドの隆盛と併せて追います。
ジョー・ターシアがフィラデルアフィアの212 North 12th Streetにシグマ・サウンドをオープンさせた1968年8月。そこからのシグマ・サウンドとギャンブル&ハフ、MFSB、トム・ベルとスタイリスティックスの快進撃を追います。
ジョー・ターシアがシグマ・サウンドを設立する以前、ギャンブル&ハフはまだ売れっ子とは言いがたいソングライター/プロデューサーチームだった。1967年に全米4位まで昇ったソウル・サヴァイヴァーズの「Express To Your Heart」が彼らの最大の成功作だっ…
ジョー・ターシアが率い、フィリー・ソウルの名盤を数多く生み出したシグマ・サウンド。今回はその前史として、シグマ以前のターシアや、フィリー・ソウルのキーマンたちのキャリアを見ていきます。
マイアミのクライテリア・スタジオに導入されたカスタムメイドのMCIコンソールを軸に、当時このスタジオを拠点にしたエリック・クラプトン『461オーシャン・ブールヴァード』や、ビー・ジーズ、イーグルスの作品を紐解いていきます。
MCI JH-400シリーズのコンソール導入などの点でも競い合った、マッスル・ショールズ・サウンドを生み出した2つのスタジオに迫っていきます。
エンジニアのビル・シムジクによるイーグルス『オン・ザ・ボーダー』のプロデュース、彼が重用したクライテリア・スタジオとMCIレコーダー/コンソールの関係に迫ります。
高橋健太郎 『メイン・ストリートのならず者』を手掛けたジョー・ザガリーノ 1970年にロサンゼルスのサンセット・サウンドに導入されたAPIコンソール(ブッシュネル・コンソール)の最初期のユーザーとなったのがジャニス・ジョップリンとジム・モリソンだっ…
ニール・ヤング『Time Fades Away』で採用されたQUAD EIGHTのコンピューター制御のミキシング・システムを皮切りに、JENSEN TRANSFORMERSとAPIの成り立ちとオペアンプの隆盛を追います。
多くのトップ・エンジニアが現在でもマイクプリ/EQのファースト・チョイスに挙げるNEVE 1073が開発されたのは1970年だった。1073モジュールはそれ以前の1066モジュールとほぼ同じデザインだったが、EQのポイントが異なる。内部的には使用するトランジスター…
多くのトップ・エンジニアが現在でもマイクプリ/EQのファースト・チョイスに挙げるNEVE 1073が開発されたのは1970年だった。1073モジュールはそれ以前の1066モジュールとほぼ同じデザインだったが、EQのポイントが異なる。内部的には使用するトランジスター…
多くのトップ・エンジニアが現在でもマイクプリ/EQのファースト・チョイスに挙げるNEVE 1073が開発されたのは1970年だった。1073モジュールはそれ以前の1066モジュールとほぼ同じデザインだったが、EQのポイントが異なる。内部的には使用するトランジスター…
高橋健太郎 ビンテージNEVEの評価を支えてきた奇跡的とも言える堅牢性 1969年にメルボルンの新しい工場に移転したNEVE ELECTRONICSは、大型コンソールの生産を本格化させた。NEVEがPENNY+GILESのフェーダーを採用したのも1969年からだった。 PENNY+GILESは…
高橋健太郎 パイ・スタジオへ導入されたブルー・グレイのNEVEコンソール NEVEコンソールのカラーリングが黒から、ブルー・グレイに変わったのは1968年だった。以後、それがNEVEのイメージ・カラーとなる。最初のブルー・グレイのNEVEコンソールはロンドンの…
高橋健太郎 意外にもNEVEが登場しない1960年代のUKロック・シーン 1960年代後半のブリティッシュ・ロックの興隆と、ロンドンのスタジオ・シーンを見ていくと、サウンド・テクニクス・スタジオやオリンピック・スタジオといったインディペンデント・スタジオ…
高橋健太郎 映画『ザ・ビートルズ:Get Back』が明らかにした当時のスタジオ・ワーク 1968年10月のオリンピック・スタジオでレコーディングを終えた時点では、レッド・ツェッペリンはレコード契約を持っていなかった。ジミー・ペイジとマネージャーのピータ…
高橋健太郎 レッド・ツェッペリンの1stのステレオ・ロック・ドラム・サウンド レッド・ツェッペリンの初レコーディング中に、ジミー・ペイジがエンジニアのグリン・ジョンズに提案し、ギター・アンプにオフマイクを立てたという話は、以前にも本連載の中で…
高橋健太郎 ザ・ローリング・ストーンズの本拠地〜オリンピック・スタジオのコックピット・コンソール 1966年にフランスのコーラス・グループ、ル・スウィングルズがオリンピック・スタジオにやってきたときのニュース映画の映像をYouTubeに見ることができる…
高橋健太郎 ジョー・ボイドとジョン・ウッド〜サウンド・テクニクスが結びつけた二人の名匠 米エレクトラ・レコードのプロデューサー、ジョー・ボイドがインクレディブル・ストリング・バンドとともに、ロンドンのサウンド・テクニクス・スタジオにやってき…
高橋健太郎 プロデュース・ワークで8trレコーダーに触れたビートルズ ジェームズ・テイラーのデビュー・アルバムに協力したポール・マッカートニーは、トライデント・スタジオでAMPEXの8trレコーダーに触れた。それはAMPEXが1967年に発表したAG-440の8tr版…
高橋健太郎 ビートルズのエンジニアに大抜擢された19歳のエメリック 1965年8月、ジョージ・マーティンはEMIから独立。ロン・リチャーズらとともにアソシエイティッド・インディペンデント・レコーディングス(AIR)を設立した。マーティンは外部プロデューサ…
高橋健太郎 1962年6月6日のセッションとデビュー直前のピート・ベストの解雇 アビイ・ロードのスタジオ2は、レコーディング・ブースのワンフロア上にコントロール・ルームが設置されていた。レコーディング・ブースからコントロール・ルームへ入るには木…
高橋健太郎 EMIスタジオで行われた初録音はオーディションだったのか? ジョージ・マーティンの招きで、ザ・ビートルズが最初にアビイ・ロードのEMIスタジオに足を踏み入れたのは、1962年6月6日だったとされる。デッカ・スタジオでのセッションと同じよう…
高橋健太郎 デッカに“落ちた”ザ・ビートルズがパーロフォンと契約に至るまで デッカ・レコードのオーディションのために、ザ・ビートルズはバンに楽器を積み込み、1961年の大晦日、吹雪の悪天候の中をリバプールからロンドンまで車移動した。しかし、翌日の…
高橋健太郎 テープ・ループとブレイクビーツ テープ・ループという手法自体は、マイルス・デイビスの『ビッチェズ・ブリュー』がリリースされた1970年には、決して新しいものではなかった。 ヨーロッパの電子音楽やミュージック・コンクレートの中では、1950…
高橋健太郎 マセロが『イン・ア・サイレント・ウェイ』で行った音での挑戦的な問いかけ マイルス・デイビスの1969年のアルバム『イン・ア・サイレント・ウェイ』で、プロデューサーのテオ・マセロは、それまでにない大胆なテープ編集を聴衆に提示した。タイ…
高橋健太郎 グールドが語った“モンタージュ”としてのレコードと共同制作者への敬意 グレン・グールドのように一切のコンサート活動を拒絶し、レコーディング・スタジオで演奏することを選び取った演奏家は、クラシック音楽の世界では例を見なかった。だが、…
高橋健太郎 テイクを超えた「イ短調のフーガ」 1964年のアルバム『インヴェンションとシンフォニア』では、グレン・グールドとプロデューサーのポール・マイヤーズはSTEINWAY CD318の“しゃっくり”と格闘せねばならず、その修正のために膨大な手作業によるテ…
高橋健太郎 グールドの演奏に内在していたテープ編集に向かう必然性 1955年の『ゴールドベルク変奏曲』のレコーディング・セッションの模様は、フランスの映像作家、ブリュノ・モンサンジョンが2006年に公開したドキュメンタリー映画『Glenn Gould, hereafte…
高橋健太郎 わずか6年間のスペクターのきらめきがもたらした、音楽と録音の歴史におけるエポック フィル・スペクターの訃報に際しカリフォルニア州矯正更生局が発表した2019年撮影の写真。スペクターは2003年に女優ラナ・クラークソンの殺人で逮捕され、200…
高橋健太郎 ライブでたたき上げられたR&Bバンドチェックメイツ・リミテッドとの出会い チェックメイツ・リミテッドはインディアナ州フォート・ウェイン出身のグループだった。ソニー・チャールス、ボビー・スティーヴンスという2人のシンガーにドラムス、ベ…
高橋健太郎 ティーンエイジ・ポップから飛躍した楽曲を求め“自分のサウンド”で逆転を狙う アイク&ティナ・ターナーの所属していたワーナー傘下のロマ・レコードに2万ドルを支払い、ティナ・ターナーというシンガーを獲得して、フィル・スペクターの音楽的…
高橋健太郎 「You've Lost That Lovin' Feelin'」のヒット後ライチャス・ブラザーズが採ったスペクターへの対抗手段 ビートルズが上陸し、4曲のシングル・ヒットを放っただけでなく、ローリング・ストーンズの「サティスファクション」がビッグ・ヒットにな…
高橋健太郎 ロネッツのステレオ盤もリリースしたスペクターステレオ人気の理由は1970年代再発にあり? フィル・スペクターがステレオよりもモノラルを好んだのは間違い無いところだが、ロネッツのレコーディングにおいては、彼はステレオ・ミックスも制作し…
高橋健太郎 死去で明らかになったスペクターの生年にまつわる謎私的な曲「Be My Baby」が打ち立てた金字塔 2021年1月16日にフィル・スペクターはカリフォルニア州のサンホアキン郡にある囚人用の療養施設で死亡した。翌日にかけて、世界を駆けめぐったそのニ…
高橋健太郎 スペクターが目を付けた新進作家エリー・グリニッチの才能 1963年2月、フィル・スペクターはアネット・メアラーと結婚した。アネットはもともとはラス・タイトルマンのガールフレンドで、スペクターズ・スリーのツアー・メンバーを探しているとき…
高橋健太郎 スペクターと同日にレコーディングされたギャレット・プロデュースの「He's A Rebel」 1930年にニューヨーク州のナイアガラ・フォールズで生まれたトミー・テデスコは1952年にトランペット奏者のラルフ・マーテリーのグループに参加。翌1953年に…
高橋健太郎 スペクターに心酔していたジーン・ピットニーが「Uptown」に影響されて書いた「He's A Rebel」 1962年5月、ロネッツを連れて、ロサンゼルスに戻ったフィル・スペクターはゴールド・スター・スタジオに駆け込んで、彼女たちのデモ録音を行った。だ…
高橋健太郎 パリス・シスターズのレコーディングに後のレッキング・クルーとジャック・ニッチェを起用 ニューヨークに移った後も、フィル・スペクターはレスター・シルの依頼があると、ロサンゼルスに戻って、制作を行った。シルとリー・ヘイゼルウッドのプ…