今年2月にオープンしたレコーディング・スタジオ、Splash Audio Suiteは、恵比寿駅から徒歩10分のビルの地下2階に構える。2010年開業のSplash Sound Studioと同じく、音響設計をアコースティックエンジニアリングが担当。Splash Sound Studioよりコンパクトだが、Dolby Atmosミックスに対応し、クオリティを重視した環境となっている。そして、スタジオとしてのコンセプトが明確だ。
7.1.4ch環境でDolby Atmosミックスが可能 バジェットがコンパクトなセッションにも対応
Splash Audio Suiteは、Splash Sound Studioと同じ建物の同じ階に入っている。Splash Sound StudioはAMS NEVEの卓Genesys Black G32を備え、大音量楽器の録音や5.1chミックスなどに対応。一方、Splash Audio Suiteではボーカルやソロ楽器をリーズナブルな料金で録音できるほか、7.1.4chシステムを用いたDolby Atmosミックスも可能だ。「スタジオとしてのクオリティはSplash Sound Studioと同等ですが、バジェットがコンパクトなセッションにも対応します。ミックス用の設備についてはSplash Sound Studioの“上位互換”を目指しました」とは、スタジオの代表でチーフ・エンジニアの淺野浩伸氏の弁。上位互換とは、Splash Sound Studioのルーム・アコースティックの方向性を踏襲しながら、ミックス&モニター用の環境を拡張したことである。これにより、Splash Sound Studioのクライアントが違和感なく移行できる点も魅力だ。さて、淺野氏は二十数年前から立体音響に関心を持っており、Dolby Atmos Rendererとも既に6年ほどの付き合いだという。
「自分自身がDolby Atmosミックスに取り組む環境としても、Splash Sound Studioとは別に新しい場所が欲しかったんです。準備は3年くらい前に始めましたが、急展開の契機となったのは、AVID Pro ToolsがDolby Atmos Rendererを内蔵するという昨秋のニュース。2021年にApple MusicがDolby Atmosに対応したときから大きな可能性を感じていたし、Pro ToolsがDolby Atmos Rendererを内蔵すればさらに普及するだろうと思ったので、2023年12月のリリースに合わせてスタジオ造りを本格化させることにしました」
7.1.4chのスピーカーはGENELECの製品で統一。3ウェイの8331A×11台にサブウーファー7360A×1台を加えた構成で、いずれもGLMで音響補正が施されている。「この部屋のアドバンテージは天井の高さです」と語るのは、アコースティックエンジニアリングの代表=入交研一郎氏。スケルトンの状態では3m以上もあったそうだ。
「トップ・スピーカーを設置する際、問題になりやすいのはモニタリング・ポジションとの距離。天井が低いと十分な距離が取れないので、音響補正しきれない“近くで鳴っている感”みたいなものが出てきます。でも、この部屋では余裕を持って設計することができました。面積に対して、これだけの天井高を持つスタジオというのはなかなかないと思います」
Splash Sound Studioの自然で緻密な響きを踏襲したルーム・アコースティック
ルーム・アコースティックもSplash Audio Suiteの個性の一つ。「イマーシブのスタジオはデッドに造るのが基本ですが、淺野さんのところでそうするのは違うだろう、という思いがありました」と、入交氏は振り返る。
「Splash Sound Studioが極めて自然かつ緻密なルーム・アコースティックを特徴としているので、それをSplashのカラーであると考え、基準にしたのです。響きを持たせつつ、イマーシブに対応するギリギリの線を突く必要がありました。どうしても吸音しなければならない場所を吸音した上で、モニタリングに悪影響を及ぼさないところに反射面や拡散面を設けたのです。また、内装に使った素材がルーム・アコースティックに好影響を与えているのもSplash Sound Studioの特徴で、ブリック・タイルや漆喰、石、パイン材などの“素材感”が音に反映されています。だからSplash Audio Suiteでも、例えば反射面を設けるときに“普通にペンキを塗っておきましょう”とはならなかったんです」
「床については、茶色でシックな感じにしたいからウォールナット材をリクエストしたのですが、実はウォールナットの音響特性がどういうものなのかは特に計算に入れていませんでした」と淺野氏。しかし入交氏は「プロのエンジニアやアーティストの方々が“こういうビジュアルのスタジオを造りたい”とおっしゃるとき、そこには必ず、潜在的に音のイメージが入っているんです」と語る。
「だから、ご希望の素材と音が相反することは、意外と少ないんですよ。もちろん、淺野さんが選んだ素材に対して、音響的に不適であると返すこともありませんでした」
音響機器の選定にも淺野氏の視点が光る。オーディオI/OのAVID Pro Tools|MTRXやモニター・コントローラーのGRACE DESIGN M908について聞いてみよう。
「Pro Tools|MTRXは、2Uのコンパクトな筐体に最大8枚のI/Oカードを追加できる拡張性が魅力。Danteカードを入れていて、Splash Sound Studioとつなごうとしているんですよ。Pro Tools|MTRX IIが発売された後に導入した理由は、フロントのディスプレイによる視認性の高さ。そして、スピーカー・プロセッサーのSPQを使う必要がなかったからです。このPro Tools|MTRXからステレオ、5.1ch、7.1.4chの信号をM908にデジタル伝送しています。各フォーマットのシグナル・パスがスピーカーの直前まで全く同じなので、ステレオとDolby Atmosのミックスを比較するようなことも容易です。それにGRACE DESIGNのモニター・コントローラーは数多くのレコーディング・エンジニアに使われてきたものなので、初めてSplash Audio Suiteをご利用いただく方とも親和性が高いのではないかと思います。総じて大事にしたのは“使いやすさ”。スタンダードなPro Toolsスタジオの操作性を維持しつつ、5.1chや7.1.4chにフットワーク軽くアクセスできるような環境にしています」
入交氏が「Splash Sound Studioの目と鼻の先で、連携しやすい点も、この場所にSplash Audio Suiteを造ることにした大きな理由」と語るように、両者を組み合わせればバンドの録音からDolby Atmosミックスまで、音楽制作のあらゆる工程をカバーできる。Dante接続が本格化すれば、さらなる人気を博すこと請け合いだ。