坂本さんは一番かっこいいことをやりそうな人。一緒に仕事しているのが文句なくかっこいいと思われた
2023年3月28日に坂本龍一さんが他界されて、1年を迎えた。この追悼企画では、ソロ作品を中心に坂本さんと共作したミュージシャンやクリエイター、制作を支えたエンジニアやプログラマー、総計21名の皆様にインタビューを行い、坂本さんとの共同作業を語っていただいた。
パール兄弟での活動と並行して、セッションギタリストとしてキャリアを重ねていた窪田晴男。東京ニューウェーブシーンで活躍していた彼が、坂本龍一に抜擢されたのは『未来派野郎』(1986年)のレコーディングセッションだった。
ギターとしては変わった指使いをリズムに合わせるのに苦労しました
——坂本さんとの接点はどうやって生まれたのでしょうか
窪田 当時参加していたHAOという即興バンドで、六本木インクスティックに毎月出演していたんです(編注:窪田のほかに蓜島邦明、横山英規、棚沢雅樹。1月に数十年ぶりにライブを行った)。即興なので、めちゃくちゃやるだけなんだけど、いつも通り演奏していたら、ミディかSchoolレーベルの団体が流れ込んできて、その中に坂本さんがいて。そのときは、僕も“あ、坂本龍一だ”と思うくらい……なかなか話しかけられないですしね。そうしたら2週間後ぐらいに電話があって、『未来派野郎』のレコーディングに突然呼ばれるんですよ。
——そんなすごいことがあったんですね。
窪田 本当に。インプロをやっているのを見て、“なんかあのギターいいじゃない”っていうふうに思っていただいたんじゃないかと。あのころの坂本さんは、アバンギャルドとポップスを結びつけたようなことがやりたかったんだと思うんですよ。それで、僕がそういうインプロをやっていたのが得点が高かったのかもしれない。ただインプロの割にはしっかり弾いていた……アート・リンゼイのようなノイズの専門家よりは、ちゃんとドレミファソラシドを弾いていたんです。だから『未来派野郎』のバランス感に、ちょうど僕が適合すると思っていただけたんじゃないですかね。レコーディングは、緊張しましたよ。当時はパール兄弟もデビューしていたし、スタジオの仕事もやっていたけれど、坂本さんが目の前にいるということにちょっとビックリしちゃったというか……一生懸命やりましたけどね。
——スタジオではどんなやり取りが?
窪田 譜面が1段譜というのがちょっと意外でした。五線譜1段でコードがちょっと書いてある。アカデミックな方だから、譜面も束で来るかと思ったんですけど、全然そんなことはなくて。で、「ギターのことはよく分かんないからさ」「大丈夫ですよ」「こういうふうにやって」「分かりました」……そういうやり取りでレコーディングが進んでいました。つまり、譜面はコードネームと基本的なことがあるくらいで、あとはもう口頭でっていう。普段、ほかでこういうスタイルで仕事をすることはあまりなかったので、ちょっと時間がかかっちゃったなという印象がありましたね。1曲に丸々1時間かかったかもしれない。でも、当時の坂本さんのスタッフから聞いた話では「窪田は根性がある」と。レコーディングのときにあきらめなかったからでしょうかね。
——でも時間がかかるのは、ほかの仕事と要求されている内容が違うからでは?
窪田 特殊だと言うほどではないんですけど、坂本さんが口三味線で言うフレーズが、ギターのフレーズではないんですよね。やっぱりキーボーディストだから。それに、あの当時はクリックにできるだけ合っている方が偉いという風潮で、リズムにはすごく気を遣いました。今のPro Toolsみたいに、録ってから位置を動かすことはできないし、ギターとしては変わった指使いでリズムに合わせて弾くのにちょっと苦労しましたね。でも、だからこそこういう作品ができているのだなと思います。
——例えば「G.T. II°」のドライブする感じの源泉は、そういうところにあったように思います。
窪田 そうかもしれませんね。当時のシーケンサーは、まだ16分音符の1/24くらいの精度でした。まだドラムループが使われる前で、それでも打ち込みのリズムがグルービーで。それを聞いたら、「24を13:11、素数:素数に分割するとハイハットのグルーブが出るんだよ」ということをお話ししてくれたのを覚えています。弱拍のところがちょっと後ろなんですよ。僕自身もコード使いが複雑な曲を書くので、それにはあまり苦労しなかったですけど、とにかくそのフレーズとリズムを合わせてちゃんと弾くのがすごく大変でした。
絵コンテを見ただけで必要な音楽が分かっていた
——『オネアミスの翼−王立宇宙軍−』のサウンドトラック(1987年)では、窪田さんはギターの演奏だけでなく作曲でも参加されています。
窪田 よく考えたら、こんな高卒のロックギター弾きに、よく任せてくれたなと思います。だって、一緒に参加した野見(祐二)君や上野(耕路)君はちゃんとしている人ですし。坂本さんのキャリアの中でも恐らく仕事と夜遊びの両方を合わせた頂点だった時期で。新興のアニメ会社の依頼ですよね。
——後に『新世紀エヴァンゲリオン』を制作するガイナックスの最初の作品です。
窪田 あの当時はバブル景気だから、潤沢に予算があったんだと思います。野見君と上野君は後に『ラストエンペラー』にも関わっているけど、僕はそうしたオーケストレイティブなことではない係で選んでもらったんでしょう。僕は、映画音楽に関わることが初めてだったんですよ。だから当時は「こんなもんかな」と思ったけど、その後いろいろやってみると、『オネアミスの翼』は本当に系統だっていて、ものすごくやりやすい仕事だったんだなと思います。
——どういうことですか?
窪田 ちゃんと絵コンテがあり、坂本さんが最初に4つのモチーフを書いていて、それぞれをどういうふうに変奏せよ。で、何秒目からこういうことが始まって……というようなことが全部決まってたんですよ。ロジカルですよね。映像の音楽の仕事では、“ここはまだ決まっていないのでこんなノリで”みたいなことが必ずあるんですけど、それは全然なかった。ガイナックスも新しくできたばかりだし、坂本龍一に依頼するということで、先方も気合いを入れてきたんだと思います。坂本さんの音楽の差配も見事で。頭の中でこうパンパンパンパンって、4つのモチーフだけで全部いけるとか、いまだに僕には思えない。もちろん、追加でこういう曲も要るということもありましたが。だから、坂本さんは、音楽監督としてとても優秀でした。絵コンテを見て、この作品に対するどういう音楽が必要で、ここでこういう転換が必要で、ということがその時点で分かってらっしゃった。まだ『ラストエンペラー』の前ですよね?
——坂本さんが手掛けたサウンドトラックは、『戦場のメリークリスマス』『子猫物語』に続いて、『オネアミスの翼』は3作目でした。
窪田 3作目でそれがもう分かっていたっていうのは、やっぱり音楽的な頭の回転が速い方だなぁと。もちろん、坂本さんの資質が、映像に対する音楽にすごく向いてたんだとは思いますけどね。僕自身も、そういう体験を、20代後半にさせてもらったのは貴重な体験でした。確かに曲を書かせていただいたし、アレンジもしたけど、坂本さんの支えが見事だったので、僕からしたら“お手伝いした”という意識の方が強いですね。
ニューヨークへ持ってきて、ここで全部もう一度組み直すことが大事なんだ
——窪田さんは、坂本さんのオリジナルアルバムでは、『NEO GEO』(1987年)にも参加されています。
窪田 坂本さんの作風も、ここからガラッと変わっていきましたね。僕はそのシーンに居合わせた。東京で、『NEO GEO』のプロトタイプというか、デモ作りをずっとしていて、その作業にも呼ばれていたんです。『未来波野郎』的な意味での形はもうその時点で出来上がっていて、坂本さんはそれを持ってニューヨークのビル(ラズウェル)のところへ行く。東京でのデモを解体していくその作業に、僕も連れていってもらえたんです。
——同行されていたことは存じ上げませんでした。
窪田 ニューヨークに2週間居させていただいて。当時は、英語のやり取りはさっぱり分からなかったけれど、東京で積み上げてきたものが、当時の僕からの視点では壊れていくというか、バラバラになっていく。それまですごくまとまってサウンドしていたものが、あっちこっちに拡散していくような。それで、最後に「ねえ坂本さん、これ、東京でやっていたときの方がいいと思いません?」って聞いたんですよ。そうしたら「それは分かるけど、例えば中国の山奥で一人で物を作っている人がいて、それで完璧だと思っている。でもそれは、そこでしか通用しない。ニューヨークへ持ってきて、ここで全部もう一度組み直すことが大事なんだ」とおっしゃって。要するに俺はこれをやりたいんだ、それが『NEO GEO』の目標であった、ということだと思うんですけど。
——見ていたものが違ったわけですね。
窪田 僕が日本に帰った後、坂本さんはビルと大ゲンカしして、暗澹たる気持ちで日本の空港に降り立って。そこで流れている音楽を聴いたら、グルーブのない音楽ばかりで、これは『NEO GEO』を自分が作った価値があると再認識した……そういうことをおっしゃっていました。ある意味では、それまでとは真逆の方向へ行くんです。続く『NEO GEO』のツアーは、タブラや、沖縄の古謝美佐子(vo)さんたちが入ってきて。今度は僕が、逆にジャストなタイム感の中心線をデヴィッド・パーマー(ds)とともに守る側を担うことになる。だから、坂本さんとしても大転換点だったと思うんです。その後、自然音に行って、非同期の音楽へ向かっていかれますが、その最初の出発点はここじゃないですかね。大胆に変わっていいものだっていうことを確認したというか、気づきの最初というか。“変わっていいんだ。むしろ変わるべきなんだ”と。
『未来派野郎』の発売日が僕がプロになった日
——実際に坂本さんにお会いする前は、窪田さんは坂本さんのことをどうとらえていらっしゃったのですか?
窪田 僕が意識したのは『音楽図鑑』(1984年)。このころ、日本人のアルバムで買ったのは4枚しかなくて、20代の目標はその人たち全員と共演するということだったんです。それが最初に叶ったのが坂本さん。次が矢野顕子さん。あとは佐野元春さん、渡辺香津美さん。こうした方々との共演は、なんとか20代のうちに収まりましたが、それができた理由は勢いだと思います。自分の実力ではなくて、評判が評判を呼びというか、人様の口添えが、実際に僕がやったことよりもどんどん大きくなった結果です。
——窪田さんのギターが、一聴して分かるような個性的なものだったからだとは思いますが……。
窪田 我が強いようなギターなんだけど、パンク/ニューウェーブで育ったので、タイミングはジャストなんですよね。だからレコーディングでは使いやすかったんじゃないかと思います。あと、これは杉並っ子のひがみかもしれないけど、はっぴいえんど〜ティン・パン・アレー周辺の方々って、当初は自分たちの音楽が理解できる人が少なくて、だから仲間が選ぶミュージシャンをとても気にしているように見えた。それは表から見るとセレブリティ的で閉鎖的だけど、そのコミュニティ内での評判が、キャスティングに関しては大きく作用していたんじゃないかなと。だから『未来派野郎』が出た後、僕に対する信頼度の増しっぷりは大きかったですよ。“坂本龍一が使ってるんだから、こいつは一流に違いない”って。パール兄弟の音楽なんか聴いていない人からも、そうやってたくさん仕事をしているから、世間的にも人気があるんだなって。パチンコの確変じゃないけど、当たり出したらどんどん出ちゃうみたいな。
——窪田さんご本人が意図したわけではなくても、スタジオミュージシャンとしてのブランディングとして大きかったと。
窪田 ものすごく大きかったです。僕は『未来派野郎』の発売日が、恐らくプロになった日なんですよ。そういう意味では。その前もずっと仕事はしていましたが、窪田晴男という名前で仕事に呼んでもらえる感じになったというのかな。それまでは知り合いの現場だけだったけど、『未来派野郎』の後は、全然知らないアレンジャーからも呼ばれるようになりました。だから、坂本さんに足を向けて眠れない。特にこのころは、『ラストエンペラー』でアカデミーを受賞するとか、坂本さんのキャリアの中でも世の中と接触が多くあった時期だと思うんですよね。その中に混ぜていただいたのは、僕のキャリアとしては大きかったです。坂本さんは、日本のミュージシャンで一番かっこいいことをやりそうな人、先頭バッターみたいな人だったような気がするんですよ。だから、坂本さんと一緒に仕事してるんだっていうのが、文句なくかっこいいと思われた。当時の音響ハウスの風景とか、今でも夢で見ることがありますね。本当に僕自身の何かを変えてくださった人だなと思うので、恩人ですよ。何にも返せませんでしたけど、こうしてお話しすることが恩返しの一つになればいいなと思います。
【窪田晴男】1959年生まれ、東京都杉並区出身。近田春夫&ビブラトーンズを経て、1980年代半ばにサエキけんぞう(vo)らとパール兄弟を結成。バンド活動と並行してスタジオ/ライブでも活躍。坂本作品では『未来派野郎』『NEO GEO』『オネアミスの翼 ―王立宇宙軍― オリジナル・サウンド・トラック』に参加した。近年はプロデュース/セッションのほか、有近真澄(vo)らとのエロヒムや金子マリ5th element willなどでのライブ活動を続ける