僕のデモテープを聴いて「こういうことがやりたいの?」 教授は曖昧なところを見抜くんです
2023年3月28日に坂本龍一さんが他界されて、1年を迎えた。この追悼企画では、ソロ作品を中心に坂本さんと共作したミュージシャンやクリエイター、制作を支えたエンジニアやプログラマー、総計21名の皆様にインタビューを行い、坂本さんとの共同作業を語っていただいた。
ユーフォニアムとコンピューターに長けた音楽家、ゴンドウトモヒコ。長く高橋幸宏の制作をシンセプログラマーとしてサポートしていた彼は、その流れからHuman Audio Sponge〜HASYMO〜YMOでの坂本龍一とも共演することになる。ステージに立ちながら、YMOの数々のレパートリーのトラックを管理するという重責を担っていたゴンドウに、当時の坂本とのやり取りについて聞いた。
ラジオ番組にデモテープを送ってE-Mailのやり取りをしていた
——最初に坂本さんにお会いしたのは?
ゴンドウ 駒沢のパラダイススタジオに楽器を搬入しに行ったときですね。1995年かな。僕はオフィス・インテンツィオに入って間もないころで、スタジオに居るシンセプログラマーまで楽器を運ぶのがメインの仕事でした。そのときに、教授の機材セッティングに行ったんです。東浦(正也)さんが教授の担当をしていたころでした。その後、時間があれば作業を見ていてもいいということで、見学していたんです。
——まだ正規のシンセプログラマーとして高橋幸宏さんのアシストをする前のことだったんですね。
ゴンドウ 現場の見学はインテンツィオの方針というのもあって……見て学べと。僕も教授の仕事はぜひ見たかったので、一日中見学していました。そのときは佐橋(佳幸)さんがダビングしていて、教授はそのディレクションをしていたと思います。仕事をしているときの教授は、ちょっとおっかない印象だったんですけど、その日の作業は21時ころには終わって、そこで「インテンツィオに入った権藤です。よろしくお願いします」と緊張と感動交じりで言ったのを覚えています。そうしたら「頑張れよ」と、手を差し出して握手してくれた。もう涙が出るくらいうれしかったです。いい人だなあと。
——それまで作品やメディアで触れてきたイメージとは別の、坂本さんに初めて会ったと。
ゴンドウ そういうことですね。もちろんライブは結構見ていて、劇作家/演出家の如月小春さんとの『マタイ1985 〜その人は何もしなかった〜』とか、『未来派野郎』のころのライブとか。当時、まだ機材を運んでいただけでしたけど、教授の現場は機材も豊富だったし、いろいろ学ぶことが多かった。そのうち、そういうローディ的な役割と、プログラマーとしての仕事がシームレスに並行していて、次第に後者の比率が多くなっていきました。
——その後、高橋幸宏さんをはじめ多くの現場でプログラマーとしての仕事をしつつ、anonymassなど自身の音楽活動も続けていかれます。
ゴンドウ 実は、機材を運んでいるころに、教授のFM番組(J-WAVE『PAZZ & JOPS』)にデモテープを送ったりしていたんです。それがきっかけでE-Mailのやり取りをしていて、“こういうことがやりたいの?”と書かれて、ハッとしたり。そのときは音響的というか、アンビエントのような曲だったんです。やりたいことの一つではあったんですが、あくまで一つだったので、“そういうのでもないんだな……”と気づかされたんです。教授はそういう曖昧なところを見抜くというか。もしそこで“イエス“と答えていたら、そういうアンビエントっぽいことをやりたい人として僕を見てくれたのかもしれませんが。
——既に現場で直接顔を合わせているのに、ラジオ番組宛に送ったんですね。
ゴンドウ 仕事の現場で教授にパッと渡すというのも、気が引けたので。でも教授は、当時のインテンツィオのスタッフの作った曲を時間を取って聴いてくれたり、それでピンと来るものがあったら「彼はしばらく作品作りに集中させてあげて。現場に来なくていいから」と言ったりもしていましたね。
——楽器を現場に運んでいたその当時、坂本さんの作業を見ていて印象的だったことは?
ゴンドウ 緊張していたし、うれしかったんですが、仕事中はピリピリした雰囲気がありました。ずっと寡黙なんです。
教授がどのパートを弾くかリハまで分からない。事前に打ち合わせをしたことはないかもしれない
——ゴンドウさんが、実際に坂本さんと共演するのは、スケッチ・ショウに坂本さんが合流してHuman Audio Sponge〜HASYMOとして活動するころになります。
ゴンドウ そのころはもう割と普通に接していたと思うんですが、やることが多くて、それを意識する余裕がありませんでしたね。シーケンスのマニピュレートをしていたんですが、コンピューターもまだまだ不安定でした。ステージに立っているときは緊張感もあるので、大きなミスはなかったと思います。でも、やっぱりYMOの3人がそろうと、雰囲気が変わります。特殊なエネルギーが出てくる。ロンドン、スペインのsonar festival、アメリカではサンフランシスコ、ロサンゼルスとか、海外でもライブをしましたし、もちろん国内もたくさんやりました。
——ユーフォニアムやフリューゲルホーンを演奏しながら、シーケンスの管理をしていたわけですね。
ゴンドウ 細かいことは割と一任されていて、僕の役割も、どこをどう演奏するのかも、指定されないんです。自分の判断でやってみて、何か言われたらやめればいい、という感じでした。ただ、教授がその曲でどのパートを弾くのかは、リハに入ってみないと分からないので、そこを判断してトラックから出すものを調整していました。
——特に、メロディパートを演奏するのは、YMOの3人の中では坂本さんしかいないわけですよね。
ゴンドウ 「今は教授、メロディ弾いていないな」と思ったら、トラックのメロディのフェーダーを上げる。それも演奏している内容を見て判断していて、事前に打ち合わせをしたことはないかもしれない。僕も、聞けばいいんですけど、聞きづらい感じもあるし。教授が何も言わない以上は、それが合っているんだと思ってやっていました。演奏パートの話で言えば、「Riot In Lagos」ではKORG KAOSS PADで教授がメロディをぐしゃぐしゃに加工するシーンがあったのですが、元となるメロディは教授が自分で弾いたものをファイルにしていました。
——基本的に、再生するトラックのデータもゴンドウさんの判断で制作して準備しておいたのでしょうか?
ゴンドウ はい。ただ、教授がトラックに手弾きでフレーズを入れる、というのはリハ中にやったことがあります。「TECHNOPOLIS」の、メロディの裏で鳴っているあの速いフレーズがありますよね? 僕なりに市販の楽譜などを参考にして作っていったら「違う」と言われて、その場で演奏してデータを直しました。やっぱりよく聴いていらっしゃるなと思いましたね。
——なるほど、リハの段階でチェックして、素早く修正していたんですね。
ゴンドウ あと、リハの初日に向けて譜面を用意していたのですが、「ONGAKU」だったかな? 僕が持っていった譜面を、教授が「違う」と言って、その場でサーッと譜面を書いて「これコピーして」と。そういう姿を見ると、すごいなと思うと同時に、ちゃんとしていないとやっぱりダメだなと思いました。
Prophet-5の音作り、MIDIのタイミング、音の並び方。設定ではなくその場の判断が勉強になった
——2007年に、YMOのシングル『RESCUE / RYDEEN 79/07』がリリースされます。特に「RYDEEN 79/07」はYMOが出演したCMで使われたセルフカバーで、ゴンドウさんもクレジットされています。
ゴンドウ はっきりと覚えていないんですが、ここ(ゴンドウのプライベートスタジオno-nonsense)でプリプロしたと思います。幸宏さんの曲だから、ベーシックは幸宏さん主導で、ということだったかな。日記をずっとつけているので、当時のものを見てみましょうか。
11月6日(月) くもり(編注:2006年)
10時 音響ハウス。システム的な懸念は全てクリア出来、3人が来るのを待つ。先ず教授が13'に入り、いきなり作業へ。ぼくのMacのプラグインをのぞき、pluggo、Hipnoあたりをチェックしたのは意外。入れておいて良かった。教授のチミツなSEづくりから入り、2〜3トラック録る。素材としたトラックもプロセッシングでいいかんじに。Pro5(編注:SEQUENTIAL Prophet-5)でPad、Motif(編注:YAMAHA MOTIF)で、Toy Pfのシーケンスなど、MIDIのエディットに関してもやはりチミツだ。DPを使っていることも作業をスムースに出来、(結局3人みなDPでうれしい)どんどんと曲はカタチになる。Toy Pianoは大村さんが買いに行き、さっそく録る。幸宏さんのドラムも入れますます豪華に。細野さんは方向性をかためよう、というところで今日はほぼ終わる。確かにおなかいっぱいな部分もあるのだ。それにしても3者3様。3人に囲まれながらの作業は実に緊張もするが、勉強になった。やはりあなどれない強者達(つわものたち)。
11月7日 晴
YMO Recording 2日目。今日も13'には教授がスタジオに入る。作業はスムーズ、それ以上に勉強になる。やはり教授であるが故、人に教えること常に忘れない優しさもある。Prophetの音づくり、MIDIのタイミング、音の並び方。そして細野さんのシンセベース。もう体にしみついている曲だからなのか、みごとなベース(ログドラム)を一発そこそこで入れてしまう。
これを見ると、この2日で「RYDEEN 79/07」を録っていますね。このトイピアノはこの後でもらって、自宅にあります。「RESCUE」は細野さん主導だったので、それぞれ素材で参加して細野さんがまとめたと思います。
——“Prophetの音づくり、MIDIのタイミング、音の並び方”とありますが、どんなことを感じたのでしょうか。
ゴンドウ Prophet-5はアナログシンセなので、そこをシビアに見ていたんじゃないかな。設定がどうという話じゃなくて、出ている音をその場で聴いての判断として。ライブのリハでもその場で出てくるアイディアが本番に反映されていきましたけど、レコーディングでもいろいろ試していて、それをそぎ落とす作業もあったと思います。
「#18 Requiem」は“ジョン・ハッセルのようなホーンを”とリクエストが
——HASYMO〜YMOとしての活動は2012年でいったん終了しますが、それ以外での場で坂本さんとの接点はありましたか?
ゴンドウ 教授との共作が1曲ありますね。kizunaworld.orgの「#18 Requiem」(2012年3月11日発表)。教授がいきなりファイルを送ってきて、僕のホーンを入れてほしいと。“ジョン・ハッセルみたいな感じ”と言われて、TC HELICON VoiceLiveをかけて演奏したものを送り返しました。僕がもらったファイルにはシンプルな打ち込みが入っていたんですが、出来上がった曲からはリズムが抜かれていて、ピアノとシンセパッドが入ったものになっていました。
——坂本さんご本人と接する立場になって、印象が変わったことはありましたか?
ゴンドウ 出会う前は、教授のような音楽家像を見て、自分もああなれたらとあこがれていましたし、会ってからもそれが変わることはありませんでしたね。仕事の現場以外でご一緒すると、ゆるい部分もあって、やっぱり教授も普通の人なんだな、良かったなと思うこともありました。もちろん、教授のようにはなれるわけがないんですが。音楽家としていろいろなジャンルを飛び越えられていた。知識も豊富だし。すごい音楽家や作曲家もたくさんいますけど、やっぱりYMO周辺の方々は、ご一緒するようになっても自分の琴線に触れる。それだけ自分に染み付いてたんでしょうね。
【ゴンドウトモヒコ】1967年東京生まれのユーフォニアム奏者/電子音楽家/作編曲家。日大芸術学部〜ボストン大学を経て、オフィス・インテンツィオに入社。自身のグループanonymassの活動と並行してシンセプログラマー/プロデューサーとして活躍。高橋幸宏をアシストしてきた流れでHuman Audio Sponge〜HASYMO〜YMOのサポートを務める。2014年に自主レーベル愚音堂を設立。ソロ/サポートのほか、蓮沼執太フィル、ベーソンズのメンバーとしても活動中