デッカに“落ちた”ザ・ビートルズがパーロフォンと契約に至るまで
デッカ・レコードのオーディションのために、ザ・ビートルズはバンに楽器を積み込み、1961年の大晦日、吹雪の悪天候の中をリバプールからロンドンまで車移動した。しかし、翌日のオーディションでは彼らの運んだアンプは使われず、デッカ・スタジオのアンプを借りることになった。
ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、ピート・ベストの4人は、オーディションでは15曲を演奏した。オリジナル曲は「Like Dreamers Do」「Hello Little Girl」「Love Of The Loved」の3曲。残る12曲はカバーで、チャック・ベリーやフィル・スペクターやモータウン、さらには「ベサメ・ムーチョ」のようなポピュラー・ソングまで、彼らの広範なレパートリーを示すものだった。これはブライアン・エプスタインの方針だったとされる。
1995年にリリースされた『ザ・ビートルズ アンソロジー1』には、この日の録音の中から「Like Dreamers Do」「Hello Little Girl」を含む5曲が収録されている。残る7曲も過去には多くのLPやCDに収録されているので、聴くことはたやすい。すべて一発録りのスタジオ・ライブということをふまえると、ビートルズの演奏力やアレンジ能力、さらに3人がリードを取れるボーカル・グループとしての力量は十分に伝わる録音内容になっている。
しかし、オーディションを担当したデッカのA&R、マイク・スミスはビートルズとは契約しなかった。同じ日にデッカのスタジオ2でオーディションを受けたブライアン・プール&ザ・トレメローズの方を選んだのだ。デッカの制作部長、ディック・ロウはどちらか一つのバンドと契約するようにとスミスに命じていた。トレメローズも演奏力は高く、コーラス・ワークも見事だった。加えて、彼らはロンドンで活動していた。スミスは仕事のしやすい地元のバンドを選んだのだ。
結果的には、デッカ・スタジオで録音されたこのデモ音源は、ビートルズをアビイ・ロード・スタジオに導くことになる。エプスタインはリバプールとロンドンを往復して、さまざまなレコード会社にビートルズの売り込みを続けたが、良い反応は得られなかった。そこで、エプスタインはデッカのデモ音源をアセテート盤にカッティングして、配ることにした。オックスフォード・ストリートのHMVレコード店の上にある小さなスタジオが、テープからアセテート盤をカッティングするサービスを行っていた。2月になって、エプスタインがそのスタジオに赴いたことから、ビートルズに運が回り始める。
そのスタジオはEMI傘下のアードモア&ピーチウッドという音楽出版社の所有だった。カッティングを担当したのはジム・フォイというエンジニア。そのフォイがビートルズの演奏を気に入り、デモ音源をアードモア&ピーチウッドの社長のシド・コールマンに聴かせた。音楽出版社の社長であるコールマンはビートルズが自分たちで曲が書けることに着目し、友人だったEMI傘下のパーロフォン・レーベルの制作部長、ジョージ・マーティンに話をつないだ。
エプスタインは前年からEMIには何度もアプローチしては、拒絶されてきた。だが、EMIグループの中では軽視されていたパーロフォンの制作部長は、ビートルズに興味を持った。当時のEMIで破竹の快進撃を続けていたのは、コロムビア・レーベルの制作部長、ノリー・パラマーが発掘したクリフ・リチャード&ザ・シャドウズだった。シャドウズは英国におけるエレクトリック・ギターを抱えたグループの代名詞でもあった。パーロフォンはピーター・セラーズのコメディ・レコードなどでヒットを出してはいたものの、レーベルの軸になるようなポップ・アーティストは見出せずにいた。マーティンはそんなレーベルの状況を打開する可能性をビートルズに感じ取ったのかもしれない。
スタジオ設備面で米国に遅れを喫していたEMIの保守性とポップス制作
ジョージ・マーティンは1926年1月3日にロンドンで生まれている。第2次大戦後、音楽演劇学校でピアノやオーボエを専攻し、オーボエ奏者となった後、BBCの音楽部門に就職。1950年にEMIに入社したが、当初はミュージシャンとしての夢を捨てておらず、一時的な仕事と考えていたという。しかし、音楽的な能力を買われて、1955年からパーロフォンの制作部門を任されるようになった。
1931年に英グラモフォンと英コロムビアの合併によって生まれたEMIグループと、同年に建設されたアビイ・ロード・スタジオは、長らくクラシック部門に重きを置いていた。第2次大戦後になっても、ポップ部門でセールスを挙げているのは、提携している米RCAや米コロムビアのアーティストで、英国産のポップ・ヒットはわずかだった。
だが、1950年代の初めに米RCA、米コロムビアとの提携関係が相次いで失われると、EMIも方向転換を余儀なくされた。独自のブリティッシュ・ポップを育てて、ヒット・レコードを作らねばならない。29歳のマーティンがパーロフォンの制作部長に抜擢されたのも、そんな背景からだったと思われる。
建設から20年が過ぎたアビイ・ロードは、このころには古色蒼然としたスタジオと化していた。灰緑色に支配された通路は薄暗く、控え室の家具なども古びていて、居心地の良い場所ではなかったとする証言が多い。EMIのポップ部門がルビー・マレーやエディ・カルバート、ロニー・ヒルトンといった英国産のポップ・スターを生み出すようになると、スタジオの空気も変化していった。ポップ部門のA&Rの発言力が増し、彼らの要求に応えて、エンジニアも伝統的な規律から脱していった。リミッターやエコーなどの人工的な音処理も使われるようになった。とはいえ、EMIの上層部は基本的に保守的で、技術革新に対しては鈍重な体質だった。ステレオ・レコードの発売でもデッカに遅れを取っていたし、マルチトラックへの対応も遅かった。
ジョージ・マーティンは自伝『ザ・ビートルズ・サウンドを創った男〜耳こそはすべて』の中で、1957年の渡米時に、ロサンゼルスのキャピトル・スタジオでフランク・シナトラの「Come Fly With Me」のレコーディングを見学したときのことを振り返っている。当時のキャピトル・スタジオではAMPEXの3trレコーダーが使われ、シナトラのボーカルに単独チャンネルが割り当てられていた。
米国のレコーディング・スタジオの先進性にショックを受けたマーティンは、帰国後、アビイ・ロードに3trレコーダーを導入するように働きかけた。だが、EMIは自社開発のレコーダー、BTRシリーズの3世代目となるBTR-3に4tr版も加えて開発するとしたものの、結局、実現せずに終わっている。EMIのアーティストだけを扱い、外部のクライアントに接する機会が無いこと、機材の自社開発にこだわること。この2つが時代遅れを導いてしまっていたのが、アビイ・ロードという場所だった。
1960年になっても、EMIのポップ部門ではモノラル録音の一発録りが主体だった。2trレコーダーですら、その使用はクラシック録音に限定されていたのだ。このため、マーティンはピーター・セラーズのコメディ・レコードの制作では、エンジニアのスチュアート・エルサムとともに細かいテープ編集を駆使したと語っている。BBCのラジオフォニック・ワークショップ(連載第67〜70回/2019年8〜11月号参照)の人々と同じような実験をしていたことには、後になって気付いたそうだ。
シャドウズのブルース・ウェルチによれば、彼らが2trレコーダーを使ったオーバーダビングの可能性を知ったのは1962年になってからだったという。1960年の「アパッチ」をはじめとする彼らの初期のヒット曲はいずれもモノラルの一発録音だった。ところが、1962年2月に発表され、全英No.1に輝いた「ワンダフル・ランド」では、1961年にモノラル・レコーダーに録音されていたバンド演奏に、A&Rのノリー・パラマーが2trレコーダーを使って、オーケストラをオーバーダビングしていた。バンドの知らないうちに、このオーケストラ入りのバージョンが制作・発売され、ウェルチらを驚かしたのだった。大西洋の向こう側で、レス・ポールやトム・ダウドが8trレコーダーを使用するようになってから数年が過ぎても、アビイ・ロードのEMIスタジオはまだそんな状況の中にあった。
TELEFUNKEN V72SとEMI REDDコンソール
ビートルズが最初に足を踏み入れたロンドンのレコーディング・スタジオはデッカで、次に向かったのがアビイ・ロードだった。どちらも長い歴史を持つ巨大なスタジオだ。逆から言えば、彼らは小さなスタジオで試行錯誤を重ねるような経験を全く持たずに、いきなりメジャー・レーベルのスタジオでの録音を始めたのだった。このことがレコーディング・アーティストとしてのビートルズを特徴付けることになったのは間違いない。
デッカやアビイ・ロードのようなメジャー・レーベルのスタジオは保守的な側面を持つ代わりに、基本的なオーディオ・クオリティは高い。アビイ・ロードでそれを象徴するのは、EMIのレコーディング機材開発部門であるREDD(Record Engineering Development Department)が製作したミキシング・コンソールだった。
アビイ・ロードの内部には3つのスタジオがあり、オーケストラ録音もできる大きなルームがスタジオ1、ミディアム・サイズのルームがスタジオ2、一番小さいルームがスタジオ3だった。1950年代後半以後はポップ部門がスタジオ2をほぼ占有していた。ビートルズの最初のレコーディングもスタジオ2で行われたが、この時、そこに据えられていたコンソールはREDD.37だった。
REDDは1955年にREDD.17コンソールを開発。続いて、1958年に開発されたのがREDD.37だったが、両者の違いは多チャンネルへの対応で、心臓部となるプリアンプは同一だった。使われていたのは、ドイツ製のV72Sというプリアンプ・モジュールだ。
TELEFUNKEN、SIEMENS、TABなどのブランドが製造していたV72プリアンプについては、ご存じの読者も多いだろう。名機中の名機と言っていいビンテージ・レコーディング機材だ。もともとは、ハンブルグの北西ドイツ放送局(NWDR)が開発した真空管式のプリアンプで、各社がそのライセンスを得て、製造・販売していた。
V72は1chごとに電源回路まで内蔵したモジュールになっている。ゲインは+36dBの固定で、マイク・プリアンプとして使用するにはゲイン調整のための改造が欲しくなる。だが、電源回路が不要なので、ノックダウン製品を作るのはたやすい。筆者も自分で製作したことがある。しかし、近年モジュールの価格は高騰し、見かけることもまれになってしまった。
V72の後継機にはV72A、V72B、V72Tなどがあるが、これらは回路が異なるモジュールだ。一方、REDDに提供されたV72Sはトランスなどの一部仕様が異なるものの、基本的にはオリジナルのV72と同じEF806真空管を使ったプリアンプ・モジュールだ。ちなみに、ビートルズが最初に足を運んだデッカ・スタジオのコンソールも同じくV72Sを使用したものだったと言われる。
V72Sをインストールした最初のREDD.17は、ドイツのEMIの技術者だったピーター・バーコウィッツが設計。レン・ペイジをリーダーとするアビイ・ロードのREDDが製作した。それを発展させたREDD.37は1963年ごろまで使われたが、REDDは同年に自社開発した真空管式プリアンプ、REDD.47を完成させた。このREDD.47は単体プリアンプとしては、ビートルズのアルバムでは1963年の『ウィズ・ザ・ビートルズ』から使用されたという。翌1964年、そのREDD.47を組み込んだコンソールとして開発されたのがREDD.51で、REDD.51は1968年まで、ビートルズのアルバムでは『ザ・ビートルズ』(通称:ホワイト・アルバム)まで使用された。
EMIのコンソールは門外不出で、REDD.37は3台、REDD.51は4台しか製作されなかったという。しかし、現代ではREDD.17、REDD.37、REDD.51はWAVESのプラグイン・ソフトウェアによって、広く知られるようになっている。REDD.47は英CHANDLER LIMITEDがアビイ・ロードからライセンスを得て、実機の復刻版を発売している。
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。
Twitterアカウントは@kentarotakahash
Photo:Hiroki Obara