ザ・ビートルズを中心に1960年代中盤のロック録音技術を追う 〜【Vol.98】音楽と録音の歴史ものがたり

テープ・ループとブレイクビーツ

 テープ・ループという手法自体は、マイルス・デイビスの『ビッチェズ・ブリュー』がリリースされた1970年には、決して新しいものではなかった。

 

 ヨーロッパの電子音楽やミュージック・コンクレートの中では、1950年代にはテープ・ループは縦横に使われていた。あるいは、アメリカでも1960年代にはスティーヴ・ライヒやテリー・ライリーがテープ・ループを使いながら、ミニマル・ミュージックの流れを形作っていた。

 

 1967年のピエール・アンリのヒット作となったアルバム『Messe Pour Le Temps Present』には、ドラム・ビートを反復するブレイクビーツ的なテープ・ループの使用も聴き取ることができる。現代音楽や実験音楽にも精通するテオ・マセロはこうした流れも踏まえて、テープ編集に臨んでいたに違いない。

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『Messe Pour Le Temps Present』
Pierre Henry, Michel Colombier
(Philips/1967年)
アンリとミシェル・コロンビエとの共作。タイトルは“現代のためのミサ”の意で、モーリス・ベジャールのためのダンス音楽として制作。連載第71回(2019年12月号)では、後にクラブ・シーンで再評価され、コールドカットらによるリミックス盤が発売されたことについても触れた

 

 ただし、『ビッチェズ・ブリュー』におけるテオ・マセロのテープ・ループはマイルス・デイビス・グループの即興演奏を素材として、マセロが選び出した任意の部分をループさせたものだった。既に音楽として成立している素材から、独自の視点でループになる部分を切り出す。そういうアティテュードを備えていた点で、マセロのそれはよりヒップホップのブレイクビーツに近い行為だったと言うことができるだろう。

 

 2台のターンテーブルに2枚の同じレコードを乗せて、ブレイクビーツを演奏した最初のDJはクール・ハークだとされる。ハークはジャマイカ出身で、1967年に渡米。ニューヨークのブロンクスで、1973年ごろからパーティを主催するようになった。2枚のレコードを使ったブレイクビーツの手法を発明したのも、そのころだったという。だが、テープ・ループを使ったブレイクビーツならば、1970年のマイルス・デイビスのレコードの中で既に存在していたのだった。

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クール・ハーク(1955年〜)。同じレコードのビートのみの部分(ブレイク)を2枚使いして繰り返し再生し、ブレイクビーツを編み出したヒップホップDJのオリジネーターの一人
Photo:MikaV CC BY-SA 4.0

 『ビッチェズ・ブリュー』はマイルス・デイビスのアルバムとしては、1959年の『カインド・オブ・ブルー』以来のヒット作となった。『Billboard』誌の総合チャートでトップ40に入り、ゴールド・ディスクを獲得。そのヒットの大きな要因にはロック・ファンの若者にも人気を博したことがあった。時代的にはロック・バンドの演奏の中でもインプロビゼーションが増大し、アメリカではグレイトフル・デッドやオールマン・ブラザーズ・バンド、イギリスではキング・クリムゾンなどが長尺のライブ演奏を繰り広げるようになっていたころ。マイルスのエレクトリック・バンドがそうしたロック・シーンの潮流ともシンクロする展開を見せたのが『ビッチェズ・ブリュー』であり、そこに参加したジョー・ザヴィヌル、チック・コリア、ジョン・マクラフリン以下のミュージシャン達は1970年代のジャズ・ロックからフュージョンへと向かう流れのキーパーソンともなっていった。

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グレイトフル・デッドは、ジェリー・ガルシア(中央)を中心に1965年結成。1995年にガルシアの他界をもって解散。1990年代に勃興したジャム・バンドの祖としても知られる

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オールマン・ブラザーズ・バンドは、1968年にデュアン・オールマン(左から2人目)の呼びかけで結成。1971年発表の『フィルモア・イースト・ライヴ』は今なおライブ盤として高く評価されている。同年、デュアンが交通事故死するも、バンドは存続。再結成を経て2010年代まで活動を続けていた

グールドがビートルズをけなした理由はその楽曲構造にあった

 ザ・ビートルズが登場し、世界を席巻した1960年代中盤以後、レコード・セールスにおいて、ロックが占めるシェアは圧倒的なものになった。グレン・グールドも多分にそれを意識した発言を多く残している。ただし、グールドはロック・バンドという存在の象徴たるビートルズをけなすのが好きだった。代わりに彼が語るのはペトゥラ・クラークがいかに素晴らしいかということだった。

 

 グレン・グールドのペトゥラ・クラークへの偏愛は、『グレン・グールド著作集2 パフォーマンスとメディア』の「ポップ・ミュージック歌手 ペトゥラ・クラーク探求」という章に読むことができる。1967年の『High Fidelity』誌に掲載された論考だが、そこでのグールドはポップ・ミュージックの評論家と化している。

 

 ペトゥラ・クラークはイギリスのポップ・シンガーで、1964年の大ヒット「Downtown」(恋のダウンタウン)で世界的に知られるようになった。1932年生まれの彼女は映画の子役としてデビューし、レコード・デビューは1949年だったが、ヒットが出るようになったのは1960年代になってからだった。「Downtown」のヒット時には32歳で、2児の母だった。パリのナイト・クラブで歌う仕事なども経験し、レパートリーにはフランス語の曲も多かった。

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ペトゥラ・クラーク(1932年〜)。「Downtown」の後にも、「My Love」「Don't Sleep in the Subway」など、トニー・ハッチとのコンビで多くのヒットを放つ
Photo:Lindeboom, Henk/Anefo CC BY-SA 4.0

 そんな彼女が歌うティーンエイジ・ポップの完成度にグールドは強く引かれた。そして、作曲/編曲を手掛けたトニー・ハッチの音楽性を分析していくのだが、そこでビートルズが引き合いに出される。グールドは古典的なトライアドやダイアトニックを用いつつ、緻密(ちみつ)に編み上げられたポップ・ソングを生み出すハッチを評価する一方、そこから当てずっぽうに逸脱するビートルズをさまざまな言葉で揶揄していく。ペトゥラ・クラークを語ることよりも、そちらに熱が入ってしまう。どうやら唐突なsus4コードの響きなどが気に入らないのだろう、と分かったりするが、1967年に書かれたにしては、初期のビートルズしか解析していないようにも思われる。

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Colour My World
V.A.
(Ace/2014年)
ペトゥラ・クラーク「Downtown」を含む、トニー・ハッチ(1939年〜)の作品集。所属していたTop Rankが1961年、EMIに買収された後、活躍の舞台をPyeに移す。クラークとの仕事はそのPyeでの成功例

 1967年にはビートルズはある意味で、グレン・グールドのフォロワーと言ってもいい存在になった。1966年8月29日のサンフランシスコ公演を最後にコンサート活動を休止し、レコーディング活動に専念することにしたからだ。それはまさしく、3年前のグールドの行動をなぞったものだったと言える。

自社製機材を中心としていたが故に保守的だったEMIスタジオ

 初期のビートルズはライブ・バンドであり、レコーディング・スタジオでも特別なことを凝らした録音はしていない。アビイ・ロードのEMIスタジオは保守的な環境でもあり、ビートルズと最先端のレコーディング・テクノロジーの間には距離もあった。このことは本連載でも何度か触れてきたと思う。

 

 だが、グレン・グールドのコンサート活動からの引退同様に、最大の人気を誇るロック・バンドだったビートルズが、コンサート・ツアーを停止するということは、強烈なインパクトを放つ出来事だった。ビートルズがコンサート活動を停止する直前に発表した1967年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は、前年に発表されたビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』と並んで、ロック史におけるコンセプト・アルバムの金字塔とされる。この2枚のアルバム以後、ロック・ミュージックはアルバム単位でレコーディング・アートとしての完成度を競い合う方向に向かったと言ってもいい。

 

 ビートルズのバンドとしての活動期間は7年ほどに過ぎなかったが、その間、彼らに追いつき、追い越そうとするバンド群が、ロック・レコーディングの開拓を推し進めたという側面もある。レコーディング・テクノロジーの利用において、ビートルズはEMIの保守性に縛られ、最先端には位置しているとは言えなかったが、それはほかのロック・バンドがビートルズの先を行こうと試行錯誤したからでもある。その意味では、ビートルズはロック・レコーディングの基準となる存在だった。

 

 ビートルズが使用したレコーディング機材は、現代においてはほぼ例外なく、ビンテージ機材として、特別な評価を得ている。EMIのスタジオは自社製の機材を中心としていたため、コンシューマー製品としては一般に流通しておらず、それに触れることができた人たちは限られた。だが、現代ではEMIからのライセンスを得た復刻品のハードウェアやプラグイン・ソフトウェアが数多く販売され、人気を得ている。

 

 あるいは、コンシューマー製品でもビートルズが使用したという理由で、特別な評価を得ているビンテージ機材は少なくない。一例を挙げると、AKG D19というマイクがある。小型のダイナミック・マイクだが、今や価格高騰していて、入手も簡単ではなくなった。その最大の理由は、リンゴ・スターのドラム・セットの上方にオーバーヘッドとして立てられた写真によって、“ビートルズ・マイク”として有名になったからだ。ちなみに、筆者のスタジオではこのD19をトークバック用のマイクとして、コンソールの上に載せていることが多く、訪れた人が“ビートルズ・マイク?”という言葉を発することが少なくない。

アビイ・ロード・スタジオのTwitterより。AKGのダイナミック・マイクD19をリンゴ・スターのオーバーヘッド・マイクに使用していたことを紹介。現在でもこの個体を所蔵しているという

 ビートルズのレコーディングについては、詳細な記録が多くの書籍に記されている。プロデューサーのジョージ・マーティンやエンジニアのジェフ・エメリックの著書もある。本連載でそこに付け加えられることがあるとしたら、ロック・シーンの基準となっていた当時のビートルズのレコーディング環境と、彼らを越えようとしたロック・バンドの動き〜周辺のスタジオ状況などを精査してみることかもしれない。それはそのまま、イギリスにおけるレコーディングのマルチトラック化や機材のソリッド・ステート化などを追う内容にもなるだろう。

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ザ・ビートルズ・サウンドを創った男:耳こそはすべて(新装版)』
ジョージ・マーティン&ジェレミー・ホーンズビー 吉成伸幸&一色真由美 訳
(河出書房新社/2016年)
ジョージ・マーティンの自叙伝で、原著は1979年に発売。幼少期から始まり、EMIでのプロデューサーとしての仕事について触れる中で、ザ・ビートルズについても多く言及している

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ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実(新装版)』
ジェフ・エメリック&ハワード・マッセイ 奥田祐士 訳
(河出書房新社/2016年)
原著は2006年刊行。『リボルバー』以降のザ・ビートルズ作品でメイン・エンジニアを務めたエメリックによる回想録

ハンブルクでのビートルズ初録音とドイツ・ポリドール

 ビートルズの最初のレコーディング経験は、1961年6月22日、23日の2日間、ドイツのハンブルクでシンガーのトニー・シェリダンとともに行った録音だった。トニー・シェリダンはイギリス出身だが、ハンブルクで活動していて、ハンブルクに来訪したビートルズをバック・バンドとして雇うことがあった。ドイツのポリドール・レコードのプロデューサー、ベルト・ケンプフェルトがその演奏を見て、トニー・シェリダンとビート・ブラザーズ名義のレコーディングを企画したのだ。このときのビートルズ(ビート・ブラザーズ)のメンバーは、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンに、ドラマーのピート・ベストを加えた4人だった。

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ハンブルク時代のビートルズを関係者の証言で追ったドキュメンタリー『ビートルズ・ウィズ・トニー・シェリダン』のDVDジャケット(ユニバーサル)。写真左から、ピート・ベスト、ジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、ポール・マッカートニー、ハンブルグ時代にバンドを去ったスチュアート・サトクリフ

 レコーディングが行われたのはフリードリッヒ・エバート・ホールとされているが、ホールといっても幼稚園内の小さなホールであり、そこを即席のレコーディング・スタジオとして使用したようだ。予定された2曲はトニー・シェリダンがリード・ボーカルを取る「My Bonnie」と「The Saints」(聖者の行進)だったが、余った時間でビートルズのオリジナル曲もテープに収められた。ジョンがリード・ボーカルを取る「Ain’t She Sweet」と、ジョージが作ったザ・シャドウズ風のインストゥルメンタル「Cry For A Shadow」だ。

 

 トニー・シェルダンの歌う「My Bonnie」と「The Saints」の2曲は同年、ドイツのポリドールから発売された。「My Bonnie」にはフィル・スペクター(テディ・ベアーズ)風のイントロが付いていて、オリジナルのドイツ盤ではドイツ語で歌われる。加えて、ドイツのポリドールはイントロも英語で歌われるバージョンも制作し、イギリス向けの輸出盤とした。中間部でチャック・ベリー風のリード・ギターを弾いているのはトニー・シェルダンで、これは明らかにオーバーダビングだ。こうした一連の作業が幼稚園のホールですべて行われたとは考えがたいから、後日にレコーディング・スタジオでのポストプロダクションがあったものと思われる。レコーダーもモノラルではなく、2tr以上が使われたに違いない。同曲は1995年にリリースされた『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』にも収録されているが、それはバンドの演奏やコーラスとリード・ボーカル、リード・ギターが分離したステレオ・バージョンになっている。

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『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』
ザ・ビートルズ
(Apple/Capitol/1995年)
前身バンドのクオリーメン時代から初期のアウトテイク、未発表曲、デモなどをコンパイル。ジョン・レノンの未完成曲にほかのメンバー3人が手を加えた「フリー・アズ・ア・バード」が“新曲”として話題を呼んだ

 

 ジョンの歌う「Ain’t She Sweet」も『〜アンソロジー1』に収録されているが、こちらはモノラルで、一発録音のように思われる。しかし、1961年録音のロックンロール・ソングとしてのサウンドの質は悪くない。ドイツ・ポリドールの技術水準の高さがうかがわれる一曲になっている。

 

 ドイツからの輸入盤の「My Bonnie」が地元リバプールで評判を呼んだことから、ビートルズはレコード店のオーナーだったブライアン・エプスタインと出会う。エプスタインはバンドをデッカ・レコードに売り込み、1962年1月1日にビートルズはノース・ロンドンのブロードハースト・ガーデンズにあるデッカ・スタジオに赴くことになる。アビイ・ロードのEMIスタジオと並ぶ、当時のロンドンの最大級のスタジオだ。

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ブライアン・エプスタイン(1934〜1967年)。ビートルズのマネージャーとして著名だが、ビー・ジーズのデビューにもかかわっていた。エプスタインの死後、ビートルズはセルフ・マネジメント会社としてアップル・コアを設立する
Photo:Koch, Eric / Anefo
CC BY-SA 3.0 NL

 その歴史はアビイ・ロードよりも古く、1928年まで遡る。もともとの所有者はクリスタレイト・カンパニーで、同社はレコード盤の製造からレコード・レーベルへと進み、1928年にウェスト・ハムステッドのタウンホールを買収し、レコーディング・スタジオに改造した。そのエンジニアの職に就いたのが後にデッカのFFRR(Full Frequency Range Recordings)を手掛け、“ハイファイの父”とも呼ばれたアーサー・チャールズ・ハディだ(編注:ハディについては第36回/2017年1月号などで言及)。1937年にクリスタレイトのレコード部門はデッカに買収され、ブロードハースト・ガーデンズのスタジオはデッカ・スタジオとなり、ハディもデッカに移籍した。

 

 1960年代、ブロードハースト・ガーデンズのデッカ・スタジオ内には3つのスタジオがあったとされる。オーケストラも録音できる巨大なスペースがスタジオ3。ポップス系のバンド録音に使われるのはスタジオ1。ビートルズのデモ録音は最も小さなスタジオ2だったと言われる。

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ビートルズがデッカでのオーディション・レコーディングを行ったとされるスタジオ2。建物はイングリッシュ・ナショナル・オペラがオフィス兼リハーサル・スタジオとして使用してきたが、2021年に売却の方が流れたことを受け、保護のために歴史的建造物として登録された
The Beatles Decca Audition - January 1st 1962 - Beatles in London

 

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高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。
Twitterアカウントは@kentarotakahash

Photo:Hiroki Obara

 

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