ティナ・ターナー × フィル・スペクター 〜ウォール・オブ・サウンドへの執念〜【Vol.91】音楽と録音の歴史ものがたり

ティーンエイジ・ポップから飛躍した楽曲を求め
“自分のサウンド”で逆転を狙う

 アイク&ティナ・ターナーの所属していたワーナー傘下のロマ・レコードに2万ドルを支払い、ティナ・ターナーというシンガーを獲得して、フィル・スペクターの音楽的野心は再び燃え上がった。ロネッツの「Be My Baby」のようなティーンエイジ・ポップでもなく、ライチャス・ブラザーズの「ふられた気持ち」(You’ve Lost That Lovin’ Feeling)のようなブルー・アイド・ソウルでもない。ティナの本物のR&Bボーカルをこれまで以上のウォール・オブ・サウンドで包み込むのだ。それが世に出れば、No.1に返り咲くのもたやすいとスペクターは考えていたようだ。

 

 ビートルズのアメリカ上陸から2年が経過し、音楽界は大きく様変わりしていた。世界を支配しつつあったのは、自分たちで楽器を演奏するロック・バンド群だった。彼らのシンプルなサウンドは、スタジオ作業を駆使した分厚いスペクター・サウンドとは、真逆の志向性を放つものに見えた。

 

 実際にはフィル・スペクターは彼らからさして遠い存在ではなかった。スペクターはギタリストだったし、ライブ・バンドでの経験もあった。ビートルズやローリング・ストーンズとも親交を持っていた彼は、バンド・サウンドの魅力も理解していたに違いない。

 

 だが、時流に合わせることは彼の流儀ではなかった。挑戦する価値があるのは、自分が追求してきたサウンドで、もう一度、時代をひっくり返すことだけだった。1966年の初めから、スペクターはそのために全精力を注ぎ込んだ。いつものように曲を用意するところからだ。しかし、ライチャス・ブラザーズとのいきさつから、バリー・マン&シンシア・ウェルズはもう使えなかった。そこで彼はジェフ・バリー&エリー・グリニッチと復縁することにした。「Chapel Of Love」の因縁は残っていたが、バリーとグリニッチの境遇も変わっていた。2人は1965年に離婚。共作は続けていたが、ヒットからは遠ざかっていた。

 

 バリーとグリニッチをロサンゼルスに呼び寄せたスペクターは、彼らに従来のティーンエイジ・ポップから大きく飛躍した新しい作風を求めた。ビートルズに対抗するには、もっと深みのある芸術性を放つ一曲が必要だと考えたからかもしれない。スペクター自身も作曲にかかわった「River Deep - Mountain High」はバリー、グリニッチ、スペクターがそれぞれ発案したパートをつなぎ合わせものだとも言われる。

 

 

 唐突とも言える展開を重ねる同曲は、どのジャンルにも当てはめがたい妖しさを放つものになった。しかし、スペクターに躊躇(ちゅうちょ)はなかった。「ふられた気持ち」も世に出るまでは誰もヒットするとは思っていなかった。自分だけが信じる道をスペクターは邁進した。

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アイク&ティナ・ターナー(写真は1973年撮影)

予算と時間を投入した「River Deep〜」が
不発に終わった理由とは?

 ゴールド・スター・スタジオでの「River Deep - Mountain High」のリズム録音は1966年2月末に始まった。しかし、2回のセッションを重ねても、OKテイクは録れなかった。テープを自宅に持ち帰ったスペクターはそれを聴き返しては、瑕疵を見つけ、ジャック・ニッチェとともにアレンジを練り直した。

 

 3月7日の3度目のセッションで、ようやくリズム・トラックは完成した。それはスペクターにとっても初めてのダブル・ドラムの編成だった。アール・パーマーに加えて、2人目のドラマーに起用されたのは20歳の新鋭、ジム・ゴードンだ。ベーシストはキャロル・ケイ、レイ・ポールマン、ジム・ボンド、ライル・リッツの4人。ゴールド・スターに詰め込まれたミュージシャンは総勢21人だった。加えて、この日のセッションにはギャラリーも多く、その中にはブライアン・ウィルソン、ミック・ジャガー、デニス・ホッパーの顔もあったという。

 

 ティナ・ターナーはリズム録音の間中、別ブースでガイド・ボーカルを歌い続けたようだ。ゴールド・スターの狭いブースでティナがSHURE SM57を前に歌っている写真を見ることがあるが、これはそのリズム録り中のものかもしれない。リズム録音が終わると、スタジオには20人のバックグラウンド・シンガーが呼び込まれた。この状況に面食らったティナは、その日はそれ以上、歌うことができなかった。YouTube上には同曲のリズム録り中の流出テープがアップされているが、ティナの声は既にがらがらになっている。

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本文で触れている、YouTubeにアップされた「River Deep - Mountain High」のメイキング音声。枯れたティナの声が、過酷なレコーディングを物語る(https://youtu.be/0yz3d5g3XkI

 1週間の休養後、再開されたセッションにティナが足を運ぶと、ゴールド・スターにはスペクターとラリー・レヴィンの2人しか居なかったという。リード・ボーカル録りは難航して、深夜まで及び、汗だくになったティナは真っ暗なブースでブラウスを脱ぎ、ブラジャー姿でOKテイクを歌ったとされている。

 

 次週にはストリングのダビングとミックスが行われ、総額2万3千ドルほどの予算を費やして「River Deep - Mountain High」は完成した。B面にはスペクターが書いたブルース・チューン「I’ll Keep You Happy」が据えられた。スペクターはもちろんヒットを確信。アイク&ティナ・ターナーのフィレスからのアルバムの準備にも進んだ。シングルはティナ一人を呼んで作り、かわりにアルバムではアイクに活躍場所を多く与えることをスペクターは約束していた。

 

 アルバムのためにスペクターはバリー&グリニッチとさらに2曲を書き、マーサ&ザ・ヴァンデラスの「A Love Like Yours(Don't Come Knocking Everyday)」やドリフターズの「Save The Last Dance For Me」のカバーを含む6曲を制作した。アイクは自作の4曲を含む6曲を取り仕切った。かくして、フィル・スペクター流のウォール・オブ・サウンドと、アイク・ターナー流のドライなR&Bサウンドが隣り合う、奇妙な構成のアルバムが作り上げられていった。

 

 「River Deep - Mountain High」のシングル盤は4月の終わりにリリースされた。しかし、同曲を待ち受けていたのは、ラジオ局からの徹底した拒絶だった。当時、フィレスのプロモーションを担当していたダニー・デイヴィスは、デッカ、モータウン、カサブランカといったレーベルを渡り歩いた宣伝のプロフェッショナルだが、生涯で最もエア・プレイを得ることが難しかったのが「River Deep - Mountain High」だったと語っている。ティナの爆発的なR&Bボーカルはポップ・ステーションにはなじまなかったし、それまでアイク&ティナ・ターナーを支持してきたR&Bステーションは過剰なアレンジを施した同曲を好まなかった。

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フィレスからのアイク&ティナ・ターナーのシングル『River Deep - Mountain High』のレーベル。ソングライターにスペクター、バリー、グリニッチ、アレンジにジャック・ニッチェ、エンジニアにラリー・レヴィンがクレジットされている
River Deep - Mountain High / I'll Keep You Happy | Discogs

 しかし、「River Deep - Mountain High」がアメリカ中のラジオ局から拒絶された理由は、それだけではなかったようだ。DJたちはスペクターのウォール・オブ・サウンドの極限とも言える同曲を“ノイズの塊”だと言って遠ざけたとデイヴィスは言う。ジャック・ニッチェはそれを音楽業界のあちこちでくすぶっていたスペクターに対する復讐心の表れだったと分析している。成功し過ぎたスペクターに対して、謙虚さを教えてやるときだとラジオ局のDJたちは判断したのだ。

 

 5月28日に「River Deep - Mountain High」は『Billboard』誌のポップ・チャートに初登場した。しかし、4週目で最高88位を記録した後、圏外に去ってしまった。それはスペクターには受け入れ難い屈辱だった。

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「River Deep - Mountain High」は1966年5月28日のBillboard HOT 100に98位で初登場。以降、94位、93位、88位、圏外と低迷する。https://www.billboard.com/charts/hot-100で当時のチャートをたどることが可能

 スペクターとの仕事が人気拡大につながると踏んでいたアイク・ターナーにとっても、「River Deep - Mountain High」の不評は誤算になった。そのせいでR&Bのファンまで離れていくと考えたアイクは、インディーのタンジェリン・レコードなどからアイク&ティナ・ターナーのシングルを立て続けにリリースした。アイク&ティナ・ターナーとともにレーベルを建て直すというフィレスの計画は破たんし、完成したアルバムの発売計画も宙に浮いてしまった。

 

イギリスで意外なヒットとなった背景は
継続していたスペクター人気とサウンドの指向

 アメリカでは散々な結果に終わった「River Deep - Mountain High」だが、イギリスではそれは全英チャートの3位に上るヒットになった。その背景にはビートルズやローリング・ストーンズがフィル・スペクターを敬愛していたこと、ミック・ジャガーがティナ・ターナーの大ファンであったことも影響しているだろう。さらに興味深いのは、そのヒットを支えたのがラジオ・キャロライン、ラジオ・ロンドンなどの海賊放送局だったということだ。

 

 国営放送のBBCにしか放送免許が与えられなかったイギリスでは、1960年代に公海上の船舶から放送する海賊放送局が生まれた。ラジオ・キャロライン、ラジオ・ロンドンはともに1964年に放送を開始。アメリカ式のDJによる音楽番組を多く持ち、独自の選曲でアメリカの音楽も多く流した。「River Deep - Mountain High」はそこに拾い上げられ、全英チャートの3位まで上るヒットになったのだ。オランダで9位に上るヒットになっているのも、海賊放送の影響力故だろう。

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ラジオ・ロンドン(1964〜67年)の放送を行っていたギャラクシー号。エセックス沖5.6kmから中継をしていた
Radio London Ship and Location

 渦巻く轟音の中でティナ・ターナーが迷路を走り抜けるよう熱唱する「River Deep - Mountain High」がアメリカでの不評とは対照的に、イギリスでは受け入れられたというのは、両国のオーディエンスの感覚の違いを物語っているようにも思われる。それを意識して聴いてみると、後のイギリスのニューウェーブや、シューゲイザーなどに通ずる感覚を同曲の中に見出すこともできそうだ。

 

 アイク&ティナ・ターナーにとっては、このイギリスでの成功は大きな追い風になった。ローリング・ストーンズの全英ツアーのオープニング・アクトに起用された彼らは、ロック・ファンにもその存在を知られていく。ティナの背後のアイケッツで歌っていたP.P.アーノルドはそれを機に独立して、ストーンズのマネージャーのアンドリュー・オールダムと契約。イギリスでキャリアを築いていくことにもなった。

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P.P.アーノルドは、1946年ロサンゼルス生まれ。アイケッツ脱退後、ローリング・ストーンズのバック・シンガーを経て1967年『ファースト・レディ・オブ・イミディエイト』でスモール・フェイセズから楽曲提供を受ける。その後、ローリング・ストーンズの面々やジョン・ポール・ジョーンズ、アルバート・リー、キース・エマーソンらの助力を得ながら活躍。1998年にはオーシャン・カラー・シーンとの共演も

 アメリカではわずかなテスト・プレスが行われただけに終わったアルバム『River Deep - Mountain High』は、イギリスではロンドン・レーベルから発売され、アルバム・チャートの27位まで上った。しかし、スペクターにとっては、イギリスでのヒットは慰め程度にしかならなかった。望む通りに作り上げた作品がかつてない不発に終わったことで、彼の自信も砕け散っていた。フィレス・レコードは1966年で実質的にその歴史を終え、スペクターは妻のヴェロニカとともに邸宅に引きこもった。

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『River Deep - Mountain High』
Ike & Tina Turner
(A&M/1969年)
1966年にUKロンドンでオリジナルが発売。A&Mから再リリースされた際には、“最初から最後まで完ぺきなレコード”というジョージ・ハリソンのコメントがジャケットに添えられた。国内盤は2018年に最新リマスターCDがユニバーサルからリリース

 

ゴールド・スター人脈も含めて
草創期のA&Mレコードがかき集めた人材

 2年後、隠遁生活を送っていたスペクターをレコーディングの世界に呼び戻したのはラリー・レヴィンだった。スペクターがスタジオ・ワークから遠ざかっている間に、レヴィンは次の有力なクライアントを得ていた。A&Mレコードだ。1962年にハーブ・アルパートとジェリー・モスの2人が設立した同社は数年で大躍進を遂げた。社長のアルパート自身がヒット・アルバムを連発。クリス・モンテス、サンド・パイパーズ、クローディンヌ・ロンジェ、セルジオ・メンデス&ブラジル'66などのアーティストを擁して、イージー・リスニングやソフトなポップスのレーベルとして大成功した。

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ハーブ・アルパート(1935年〜)は、ティファナ・ブラスを率いたトランペッターとして活躍。A&Mを興し、「蜜の味」「ビタースウィート・サンバ」「マルタ島の砂」などのヒットを自ら放った。1990年にA&Mをポリグラムに売却するも、後に自作を買い戻し、再発。現在も活動を続けている

 この時期のA&Mのレコード群は、日本ではしばしば“A&Mサウンド”という言葉とともに語られるが、当時のA&Mレコードはまだ自社スタジオを持っていなかった。ハーブ・アルパートとトミー・リピューマが同社を代表するプロデューサーだったが、彼らの“A&Mサウンド”は実はゴールド・スターやサンセット・サウンドなどで制作されたものだった。

 

 1966年、A&Mはハリウッドのラ・ブレア・アベニューに本社を構える。その敷地はかつてはチャーリー・チャップリンの撮影スタジオだった。広大な敷地内に念願の自社スタジオの建設を始めたA&Mは、そこにロサンゼルスの優秀なエンジニアをかき集めた。テクニカル部門のチーフに向け入れられたのはロイ・デュナン。コンテンポラリー・レコードでウェスト・コースト・ジャズの名録音を数多く手掛け、東のルディ・ヴァン・ゲルダー、西のロイ・デュナンとも呼び称された伝説的なエンジニアだ。同じくコンテンポラリー・レコードからA&Mに移り、マスタリング部門のチーフとなったのはバーニー・グランドマンだった。

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A&M本社(1988年撮影)。元はチャップリン所有のスタジオで、現在はジム・ヘンソン・カンパニーのサウンド・ステージとなっている Photo:JacoTen CC BY-SA 4.0

 ハーブ・アルパートは自身のレコーディングではゴールド・スターを好んでいた。1966年にブラジル'66のリード・シンガーだったラニ・ホールと結婚したアルパートは、1968年には愛妻に捧げるかようなバート・バカラック&ハル・デヴィッド作品「This Guy's In Love With You」を自ら歌って、全米No.1ヒットにしている。この録音も前年にゴールド・スターで行われた。A&Mスタジオが完成し、稼働を始めるのは1968年の半ばだが、それまでにアルパートはゴールド・スターからラリー・レヴィンとヘンリー・ルーウィの2人を引き抜いた。さらにコロムビアからはレイ・ガーハート、RCAからはディック・ボガートも引き抜いている。当時のA&Mがいかに資金潤沢だったかがうかがわれる。

 

 

 A&Mスタジオのチーフ・エンジニアに就任したラリー・レヴィンの口利きによって、1968年の終わりにA&Mレコードとフィル・スペクターの間に契約が成立した。スペクターはA&Mの契約プロデューサーになったのだ。アメリカではお蔵入りしていたアイク&ティナ・ターナーのアルバム『River Deep - Mountain High』がA&Mから発売されることになり、さらにスペクターはレヴィンとともに新しいプロジェクトに取り組むことになった。それはチェックメイツ&アンリミテッドというR&Bグループのアルバムだった。

 

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高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。
Twitterアカウントは@kentarotakahash

Photo:Hiroki Obara