ロネッツ「Be My Baby」をめぐるエリー・グリニッチとヴェロニカ・ベネットのストーリー 〜【Vol.87】音楽と録音の歴史ものがたり

スペクターが目を付けた新進作家
エリー・グリニッチの才能

 1963年2月、フィル・スペクターはアネット・メアラーと結婚した。アネットはもともとはラス・タイトルマンのガールフレンドで、スペクターズ・スリーのツアー・メンバーを探しているときに彼がスペクターに紹介した。高校生だった彼女はその後、カリフォルニア大学に進んだが、スペクターと付き合うようになって、ニューヨークに移った。結婚した二人はマンハッタンのアップタウンの豪華なペントハウスで暮らすようになった。とはいえ、ゴールド・スター・スタジオを拠点と定めたスペクターは、アネットをひとりニューヨークに残して、ロサンゼルスで仕事することが多かった。

 

 このころまでには、スペクターはフィレス・レコードからレスター・シルを追い出すことに成功していた。フィレスのヒット曲はすべてスペクターが作り出したものだったし、ビジネス面でももはやスペクターはシルの助力を必要としなくなっていた。会社の全権を掌握すべくスペクターはシルを含めたフィレスの株主から株の買収を進め、シルもそれに応じた。スペクターとかかわり続けることの方が負担になっていたシルは、スペクターの言い値で株の売却にサインしたのだ。だが、金は送られてくることなく、1963年にはシルが訴訟を起こすことになる。

 

 アーロン・シュナイダーとも縁を切ったスペクターは、新しいソングライターを探し続けていた。そこに現れたのがロネッツ「Be My Baby」をはじめとするフィレスの大ヒット曲を書くことになるエリー・グリーニッチだった。1940年にニューヨーク州ロング・アイランドで生まれたグリーニッチは10代半ばから自作の曲を歌い、17歳でRCAからデビューするチャンスをつかんだ。1958年にエリー・ゲイの名で発表された自作曲「Silly Isn't It」と「Cha Cha Charming」は、彼女がスペクターにも負けぬ早熟なティーンエイジャーだったことを示している。

 

 大学に通いながら、作曲を続けたグリーニッチは1959年にジェフ・バリーと出会う。1938年にニューヨーク州ブルックリンで生まれたバリーも作曲家志望だった。意気投合した二人は1961年にエリー・ジー&ザ・ジェッツの名でシングルを制作。マディソン・レコードから発売されたこのシングルはA面の「Red Corvette」がバリーの曲、B面の「I Go, You Go」がグリーニッチの曲だ。

 

 グリーニッチは1962年にブリル・ビルディングを訪れ、運良くジェリー・リーバーに出会って、才能を認められた。ジェリー&リーバーのトリオ・ミュージックと契約した彼女はバリー以外にも何人かの共作者と仕事した。ほどなくスペクターもブリル・ビルディングでグリーニッチと知り合うが、最初にスペクターが気に入った彼女の曲は、トニー・パワーズと共作した「(Today I Met)The Boy I’m Gonna Marry」だった。

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ブリル・ビルディングでのエリー・グリーニッチ(1940〜2009年)とジェフ・バリー(1938年〜)。二人ともブルックリンに生まれ、遠戚関係にあったことで知己を得、音楽への情熱で意気投合し、1962年に結婚。1965年には離婚に至るが、しばらくは音楽上のパートナーシップを断続的に続け、ニール・ダイアモンドの初ヒットを生み出した
Gallery | Ellie Greenwich

 ソングライターとしては駆け出しのグリーニッチは、スペクターにとって、キャロル・キング&ジェリー・ゴフィンやバリー・マン&シンシア・ウェルズよりも扱いやすい存在だった。スペクターは彼女の書いた曲をフィレスで録音する代わりに、自分を作曲者のクレジットに入れることを要求した。それはスペクターがA面の曲の作曲印税の1/3も手中にすることを意味した。

 

 歌手でもあったグリーニッチは、ガール・グループ向けの曲を自分で歌って、デモを作ることができた。グリーニッチとスペクターのコラボレーションがうまく進んだのは、それも大きかっただろう。フィレスで録音された最初のグリーニッチ作品はトニー・パワーズとの共作による「Why Do Lovers Break Each Other Hearts」で、1963年3月にボブ・B・ソックス&ブルー・ジーンズのシングルとして発表された。続いて、「(Today I Met)The Boy I’m Gonna Marry」がダーレン・ラヴのシングルとして発表された。同曲はもともとクリスタルズのシングルとして録音されたが、ラヴの堂々としたR&Bボーカルはクリスタルズのイメージと距離があり過ぎたため、彼女のソロ・デビュー・シングルとなった。

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ダーレン・ラヴ「(Today I Met)The Boy I'm Gonna Marry」のレーベル。作曲クレジットはスペクター、グリーニッチ、パワーズとなっている。アレンジはジャック・ニッチェが担当
Darlene Love – (Today I Met) The Boy I'm Gonna Marry (1963, Vinyl) - Discogs
(Today I Met) The Boy I'm Gonna Marry

(Today I Met) The Boy I'm Gonna Marry

  • ダーレン・ラヴ
  • ポップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

新リード・シンガーのクリスタルズ・セッションで
過剰なエコー・サウンドが生み出される

 エリー・グリーニッチは1962年の終わりにジェフ・バリーと結婚した。以後、彼女はバリーとだけ共作し、フィレスのために曲を量産するようになる。エリー・グリーニッチ&ジェフ・バリーのコンビの最初の大ヒット曲となったのはクリスタルズ「Da Doo Ron Ron」で、これは1963年3月にゴールド・スター・スタジオで録音された。本物のクリスタルズはニューヨークに居たが、スペクターはミラ・サウンドで彼女たちのレコーディングを行うことには興味を失っていた。ただし、メンバーの中に一人だけお気に入りはいた。1961年に加入した最年少のララ・ブルックスだ。

 

 「Da Doo Ron Ron」の録音は「He’s A Rebel」と同じくダーレン・ラヴとブロッサムズによって行われたが、ラヴのボーカルはもはやクリスタルズにはふさわしくないと判断したスペクターは、ララ・ブルックスをロサンゼルスに呼び寄せて、リード・ボーカルを差し替えさせた。ブルックスはまだ15歳で、クリスタルズのコーラス担当だったが、これを機にバーバラ・アルストンに代わって、リード・ボーカルを務めるようになる。

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1963年のクリスタルズ。右から2人目がララ・ブルックス(1947年〜)。ソロでは1968年、ロック・ミュージカル『ヘアー』のブロードウェイ初演に出演した。夫であるジャズ・ドラマーのアイドリス・ムハマッドとともに渡欧。1999年に離婚後、ニューヨークに戻り現在も活動継続中

 4月に発売された「Da Doo Ron Ron」は全米チャートの4位まで上り、クリスタルズの最大のヒット曲になった。続いて、7月に発売されたグリーニッチ&バリー作の「Then He Kissed Me」も全米チャートの6位まで上った。同曲は米本国以上にイギリスでヒットし、全英チャートの2位まで上った。12弦のエレクトリック・ギターのイントロダクションと後半のめくるめくストリングス・アレンジが印象的な「Then He Kissed Me」は、スペクター自身にとっても最も満足する作品だったようだ。ブライアン・ウィルソンは『ブライアン・ウィルソン自叙伝 ビーチ・ボーイズ 光と影』の中で、1963年の秋に初めてスペクターと対面したとき、“「Be My Baby」は最高でした”と伝えたところ、スペクターは“「Then He Kissed Me」の方が良いよ”と返したと述べている。

 

Then He Kissed Me

Then He Kissed Me

  • クリスタルズ
  • ポップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

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ブライアン・ウィルソン自叙伝 ビーチ・ボーイズ 光と影
ブライアン・ウィルソン、トッド・ゴールド 中山康樹 監修、中山啓子 訳
(径書房/1993年)
原著は『Wouldn't It Be Nice: My Own Story』(HarperCollins/1991年)。ウィルソンの精神科医ユージン・ランディとライターのゴールドによる創作と盗用の疑惑が上がり、ビーチ・ボーイズのメンバーや家族が版元を相手取り訴訟を起こしたという一冊だが、参照部は本人しか知り得ない話であろう。現在は“正伝”として『ブライアン・ウィルソン自伝 I Am Brian Wilson』(DU BOOKS/2019年)が発売

 『He’s A Rebel 蘇る伝説』の中では、ラリー・レヴィンがこの「Then He Kissed Me」の録音について、興味深いことを語っている。ゴールド・スターにはAMPEXの3trレコーダーがあったが、スペクターの録音は全楽器をモノラルで1trに収めていた。しかし、コントロール・ルームで爆音のプレイバックを望むスペクターの希望に応えて、レヴィンはあることを思い付いた。プレイバック時の音量を稼ぐために、レコーダーの2trを使って、同じモノラルのオケをダブルで録音するのだ。

 

 レヴィンはオケの録音が終わったら、ダブル・トラックの片方は消去すれば良いと思っていた。ところが、“消去しても、エコー成分だけはレフトとライトの両方から聴こえた”とレヴィンは語っている。“レフトとライト”と言っているから、このときはモニターにステレオのスピーカーを使っていたのではないかと思われる。ゴールド・スターのコントロール・ルームの写真を見ると、ALTECの銀箱は中央のモノラル用、左右のステレオ用の3台がつるされていたようだ。

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1966年、アイク&ティナ・ターナーとのレコーディング・セッションでの写真。ゴールド・スターのコントロール・ルームには、L/RだけでなくセンターにもALTECモニターが設置されていたのが分かる。フランスの音楽サイトRREVERB.comに掲載された記事より引用
http://rreverb.com/phil-spector-wall-of-sound/

 しかし、ゴールド・スターのエコー・チェンバーのセンドとリターンはモノラルで、レヴィンはレフトにもライトにも同じリターンを戻すセッティングにしていたのだろう。ダブル・トラックの片方を消去すると、片側からは音楽の主成分は聴こえなくなった。しかし、エコー・チェンバーへのセンドにはもう片方の信号も送られ、リターンは両方に戻っていた。故に消したはずの片側からもエコー成分だけが聴こえたのだと思われる。

 

 スペクターはその過剰なエコーがモニターされる状態を気に入ったという。そして、「Then He Kissed Me」はそれまでで最大量のエコーが使われた曲になったとレヴィンは振り返っている。このエピソードは後のフィレスのステレオ版LPの奇妙なサウンドを考える上でもヒントになりそうだ。

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ラリー・レヴィンが語っていた内容の模式図。tr1とtr2には同一信号(オケ)が収められており、ミキサーで左右にパンニングするとモノラルでセンター定位となる。tr2(図ではRchへ出力)のみミュートすると、実音はLchにのみ送られる。ところがエコー・チェンバーへのセンド/リターンはモノラルなので、リターンの出力をセンター定位にしている限り、エコー成分(青)はtr2=Rchを消しても、左右両方のスピーカーから聴こえてくる

絶対にヒットする確信が得られるまで待った
ロネッツのフィレス・デビュー曲制作

 「Then He Kissed Me」でもクリスタルズのリード・ボーカルにはララ・ブルックスが起用され、彼女だけがゴールド・スターでの録音に呼ばれた。クリスタルズのほかのメンバーは、自分たちでは録音していないヒット曲をツアーで歌うだけの存在と化していた。ブルックスはピアノも弾けたし、教会で鍛えた歌声にはパンチがあった。ゴールド・スターでのセッション時の写真を見ても、スペクターが彼女だけを特別扱いしていたことがうかがわれる。

 

 だが、スペクターにはさらなるお気に入りがいた。ロネッツのヴェロニカ・ベネットだ。スペクターがロネッツを連れて、ゴールド・スターに向かい、デモ録音を行ったのは1962年5月だったが、スペクターは彼女たちをなかなかデビューさせなかった。クリスタルズやボブ・B・ソックス&ブルー・ジーンズのレコーディングを通じて、オリジナルなサウンド手法を熟成させ、すべての条件が整うのを待っていたようでもある。

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ロネッツは、ヴェロニカ・ベネット(写真中央:1943年〜)と姉のエステル(同右:1941〜2009年)、姉妹のいとこネドラ・タリー(同左:1946年〜)で結成。1961年にデビューするも、ヒットに恵まれず、エステルがスペクターとの面会を取り付け、フィレスの門をたたく。1963年、フィレスからの初作「Be My Baby」以降ヒットを連発。ヴェロニカは、1968年にフィル・スペクターと結婚し、ロニー・スペクターと名乗る。1973年に離婚した後、ソロ活動を開始した。写真は1963年撮影

 ロネッツはフィル・スペクターに出会う以前にもレコーディングを残している。最初の録音は1961年にロニー&リレイティヴズの名で、コロムビア系のレーベル、コルピックス・レコードのために行われた。以後、1962年までにプロデューサーのスチュ・フィリップスが手掛けたシングルが5枚リリースされたが、どれもヒットはしなかった。この時期の音源はロネッツがフィレスで大成功した後に何度もアルバム化されている。

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『The Ronettes featuring Veronica』
The Ronetts
(Colpix/1965年)
コルピックスが1965年にリリースした初期作品集。2014年には最新リマスターの日本盤もワーナーミュージック・ジャパンより発売
Featuring Veronica

Featuring Veronica

  • ロネッツ
  • ロック
  • ¥1324

  

 スペクターがようやくロネッツのレコーディングに着手したのは1963年3月、クリスタルズの「Da Doo Ron Ron」を作り終えた後のことだった。ゴールド・スターに呼ばれたロネッツは、グリーニッチ&バリーの書いた「Why Don’t They Let Us Fall In Love」を歌ったが、曲の完成後にスペクターはこれはヒットしないと判断し、リリースを取りやめた。同曲は1964年になってから、ヴェロニカのソロ名義のシングルとして、リリースされた。

 

 スペクターが絶対にヒットするという確信が得られる曲を手にするには、さらに4カ月が必要だった。1963年7月5日、ロネッツはゴールド・スターに戻り、ついにデビュー曲となる「Be My Baby」をレコーディングする。

 

「Be My Baby」セッションが
長時間に及んだ理由

 グリーニッチ&バリーの書いた「Be My Baby」はたぶん、デモの時点ではロネッツのバージョンとはかなり違った雰囲気だったのではないかと思われる。グリーニッチは1973年に発表したソロ・アルバム『Let It Be Written, Let It Be Sung』で同曲をセルフ・カバーしているが、それはゆったりした3拍子で、フレンチ・ポップ的な優しい雰囲気を持つ。『Let It Be Written, Let It Be Sung』(書いたままに、歌ったままに)というタイトルからして、ソロ・アルバム用にそういうアレンジを施したのではなく、もともと彼女が書いた形、自身で歌っていた形を示したのが、そのセルフ・カバー・バージョンだったのではないだろうか。

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『Let It Be Written, Let It Be Sung』
Ellie Greenwich
(Verb/1973年)
ソロ・シンガー・ソングライターとしての2ndアルバム。日本盤もユニバーサルからリリースされており、タイトルは『ビー・マイ・ベイビー』となっている。本稿で触れた「(Today I Met)The Boy I’m Gonna Marry」「Then He Kissed Me」のセルフ・カバーも収録
ビー・マイ・ベイビー

ビー・マイ・ベイビー

 

 

 対して、ロネッツの「Be My Baby」はハル・ブレインの有名なドラム・ブレイクに始まるロックンロール・ヒットだ。直前にレコーディングされたクリスタルズの「Then He Kissed Me」に比べたら、アレンジはシンプルなものに留められている。だが、同曲のレコーディングは難航したとされる。セッションに参加したマイケル・スペンサーは、ラリー・レヴィンがテープを回し始めるまでに4時間かかった。そこからスペクターがOK出すまでには、42テイク目を録音したと証言している。

 

 「Be My Baby」のベーシック録音にそこまで時間がかかった理由は、もともとは3拍子だった曲を作り替えるべく、スタジオでリズム・アレンジを進めたからではないだろうか。ハル・ブレインがあのドラム・ビートに到達して、アレンジが固まるまでに4時間。それからラリー・レヴィンがテープを回し始めたが、スペクターの望むサウンドが得られるまでにはさらに数時間を要したのではないかと思われる。

 

 ベーシック録音の後にはストリングスとコーラスのオーバーダビングが行われた。ロネッツのエステル・ベネット、ネドラ・タリーは音程が不安定だったため、コーラス録音も難航。ダーレン・ラヴ、ファニタ・ジェイムズ、ボビー・シーンといったフィレスの所属歌手たちや作者のエリー・グリーニッチ、ジャック・ニッチェの妻のグラシア・ニッチェなどが総動員されて、コーラスを仕上げたとされる。

 

 そんな「Be My Baby」のプロダクションは、過去にスペクターが手掛けてきたガール・グループとは明確な違いを放っていた。それはクリスタルズの「Then He Kissed Me」のようにアレンジが主張する曲ではなかった。すべてが渾然一体となったサウンドは、リード・ボーカルを際立たせるためだけに存在していた。

 

Be My Baby

Be My Baby

  • ロネッツ
  • ポップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

 クリスタルズにおいては、リード・ボーカルは声が曲に合いさえすれば、誰でも良かった。工業製品のように作られたスペクター・サウンドの中では、シンガーもその部品の一つに過ぎなかった。クリスタルズのリード・ボーカルはほとんどの場合、ダブル・トラッキングされている。あえて、匿名的に作られていたと言ってもいいだろう。1963年になると、スペクターのプロダクションは総じてボーカル・トラックの厚みが増す。リード・ボーカルがシングル・トラックだったのは、ダーレン・ラヴの「(Today I Met)The Boy I’m Gonna Marry」くらい。「Why Don’t They Let Us Fall In Love」でのヴェロニカのリード・ボーカルもダブル・トラックだった。

 

 だが、「Be My Baby」のヴェロニカの強いビブラートを効かせたボーカルはシングル・トラックだ。彼女の声だけに焦点が合うように作られているのが「Be My Baby」だった。そして、後にロニー・スペクターとなるヴェロニカは“私の恋人になって”と歌っていた。

 

 

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高橋健太郎

音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。
Twitterアカウントは@kentarotakahash

Photo:Hiroki Obara

 

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