ソニーの360 Reality Audio(サンロクマル・リアリティオーディオ)は、360立体音響技術を使用した音楽体験で、全方位から音に包み込まれるようなリスニング体験をもたらす。前回に引き続き、イギリス編と題した今回は、ロンドンのメトロポリス・スタジオで360 Reality Audioが制作されたNovel Coreのメジャー1st EP『iCoN』をピックアップ。制作を手掛けたエンジニアのスチュアート・ホークス氏とマイク・ヒリアー氏へのインタビューを通し、制作の裏側に迫る。
Interpretation:Hiroshi Yoshioka(Metropolis Studios) 取材協力:ソニー
今月の360 Reality Audio:Novel Core『iCoN』
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※360 Reality Audio版はスマートフォンで試聴可能です
STUDIO|Metropolis Studios 3D Audio Room
ENGINEER|スチュアート・ホークス/マイク・ヒリアー
【左:スチュアート・ホークス】25年以上の間オーディオ・マスタリングに携わり、世界中のプロデューサーやアーティスト、レーベルから信頼を得るメトロポリス・スタジオのマスタリング・エンジニア。エイミー・ワインハウスやエド・シーラン、ディスクロージャーなど多数アーティストの作品を手掛ける。
【右:マイク・ヒリアー】国内外のアーティストを手掛けるメトロポリス・スタジオ所属のマスタリング・エンジニア。最近は360 Reality AudioやDolby Atmosのミックスとマスタリングを多く手掛ける。これまで、バスティルやジョージ・エズラやサム・スミス、ボノボ、カサビアンなどの作品に携わってきた。
スピーカーでつかんだ感覚をヘッドホンで再現
マスタリング・エンジニアとして25年以上のキャリアを持ち、世界中のアーティストの作品を手掛けてきたスチュアート・ホークス氏と、360 Reality Audio制作を数多く手掛け、メトロポリス・スタジオ内で多くのエンジニアへ360 Reality Audioの制作手法をレクチャーしているマイク・ヒリアー氏。彼らによる『iCoN』の360 Reality Audio制作は、マイク氏いわく、"マイク氏がドライバー、スチュアート氏が後ろから指示をするようなイメージ"の共同作業で行われたという。
2ミックスのマスタリングから、360 Reality Audioの最終的な音の良し悪しの判断まで行ったのはスチュアート氏だ。彼は、Novel Coreのサウンドの特徴をとらえつつ、目指したサウンドの方向性と作業の流れをこう語る。
「Novel Coreさんの音はラウドなので、パンチの効いたエキサイティングなサウンドを得ようと考えました。2ミックスのマスタリングは、メトロポリス・スタジオ内にある自分のマスタリング・ルームで行い、アプルーバルしたデータをリファレンスとして、同じくスタジオ内の3D Audio Roomで、360 Reality Audioの制作をしました。これは、マスタリングした音に近づけていく作業です。正しいサウンドになるようにオブジェクトをレイアウトできたら、動かせる部分があるかをいろいろ探ります」
『iCoN』の360 Reality Audio制作を"ドライバー"のような立ち位置で担当したマイク氏は、エンジニアとして360 Reality Audioに向き合う際の心構えをこう話す。
「僕はエンジニアなので、自分の思ったようにオブジェクトを動かせてしまいますが、エンジニア個人のキャラクターよりも、その曲に求められている360 Reality Audioがどのようなものかをまずは考えるんです。今回も、スタジオの椅子に座る前に、自分の心をクリアにして、いかにNovel Coreさんの曲を代表する360 Reality Audioを作り上げることができるかということに集中しました」
作業拠点となったメトロポリス・スタジオの3D Audio Roomでは、NEUMANNのモニター・スピーカーを採用。耳の高さの11台(NEUMANN KH 120 A G×9+KH 420×2)、頭上のKH 120 A G×8台、ボトムのKH 120 A G×2台と、合計21台のモニター・スピーカーを使った360 Reality Audio制作ができる環境が整っている。スチュアート氏は、スピーカーでのミックスとヘッドホン・ミックスでの音の聴こえ方の違いについて次のように話した。
「21台のスピーカーに囲まれて聴くのと、左右2つのユニットだけで音を鳴らすヘッドホンで聴くのでは、大きく違いますね。スピーカーであれば、例えば右のスピーカーが鳴っているときに左耳でも音が聴こえるし、左のスピーカーが鳴っているときは右耳でも聴こえます。しかし、ヘッドホンであればそうはなりません。そういう意味で、バイノーラル・サウンドをヘッドホンの中だけでクリエイトするのは難しいんです。だから、スピーカーを使ってどこにサウンドがあるか聴いて、そこでつかんだ感覚を最終的に左右のヘッドホンの中で再現するように気を付けています」
ヘッドホンでの確認作業はマイク氏も重視している。
「最終的な作品はリスナーにヘッドホンで聴かれることが多いですし、そこにフォーカスする必要があるのは分かっているので、何が一番良いかは、5種類のヘッドホンを用意して聴き比べながら探るようにしています」
360 Reality Audioにおけるマスタリング作業
彼らの360 Reality Audio制作における特筆すべき工程の一つに、“360 Reality Audioのマスタリング作業”がある。これは、先述したスチュアート氏の言葉にあったように、360 Reality Audioの音をマスタリングした2ミックスの質感に近づける作業だ。その作業の詳細は、360 Reality Audioの制作当初からこの作業を行うマイク氏に教えてもらった。
「ステレオ・ミックスの最終的なマスタリング・データと、360 Reality Audioに使うステム・データでは、音圧や音質に差があります。そこで、ステムをマスタリング・データの質感に近づけるための作業を行うんです。まずはステムをミックスしたトラックを2つ作成します。これは、すべてのステムへインサートしたコンプとリミッター用のサイド・チェイン信号として使います。全ステムには、同じコンプとリミッターがインサートしてあり、サイド・チェインによってすべてのステムへ同じようにコンプとリミッターがかかるのです。私はこの作業を、手掛けたすべての360 Reality Audioで行います」
こうして質感を整えたステムを使い、マイク氏は制作用ソフトウェア360 WalkMix Creator™を使った360 Reality Audio制作に入る。
「Novel Coreさんの作品に限りませんが、私は360 Reality Audioを作るときに、フロントに置くキックやそのほかのドラム・パターンを作り込んでから、何を動かすと面白いかを判断して進めます。特にエフェクティブなボーカルなどに動きを付けることが多いですね。動きが無い曲を動かすのは苦労しますが、そもそもドラムの次にギターが入って……というような曲の構成がある上で、360 Reality Audioにするときに音楽的に必ず何か動かす必要があるかというと、そうではない場合もあるんです」
そう話した上で、マイク氏は『iCoN』収録曲「SORRY, I’M A GENIUS」の実作業について教えてくれた。
「Novel Coreさんの曲は、聴いた瞬間に遊び心があると感じたので、そこからさらに遊ぶのは難しくはありませんでした。中でも、動かした方が絶対面白いと思ったのが“SORRY, I’M A GENIUS”という歌詞で、“SORRY”“I’M A”“GENE”“US”がそれぞれ別の場所から聴こえるようにしました」
360 Reality Audioは、全天球へ音を配置できるのが特徴だが、マイク氏はそこにとらわれすぎず"音楽的"な鳴りを追求している。
「この「SORRY I’M A GENIUS」では、一部の要素は上方に置いていますが、基本的には中央から水平に円を描くようにオブジェクトを配置しました。僕は、下から聴こえる音を“音楽的”というより“映画的”であると感じるので、下には置いていません。音楽的であることを追求するためには、必ずしも球全体を使用することは必要無いと考えています」
また、別途エフェクトなどを使用するか尋ねたところ、以前手掛けた曲を具体例に挙げて説明してくれたマイク氏。
「ほとんどエフェクトは使いませんが、スネアにリバーブを足さないとイマーシブにならないと判断した場合などには足すこともあります。また、以前デッド・オア・アライブ「You Spin Me Round」の360 Reality Audioを作ったときには、ステムにリバーブが入っていなかったので、2ミックスに戻ってリバーブのステム・チャンネルを作ってからイマーシブ・ミックスを作りました」
ソフト上でオブジェクトを視覚的に配置できるが、マイク氏は耳で判断することを意識して作業を行うという。
「360 Reality Audioの制作をするときはビジュアルが邪魔をすることがあるので、曲によっては、360 WalkMix Creator™の画面を見ずに耳で判断します。まずはフィーリングを大事にしたミックスを心掛けているのです」
イマーシブ・ミックスへの期待に基づき作業を行う
アーティストやレーベルへの承認を得るアプルーバル作業でもスピーカー環境での聴取を重視するマイク氏。
「アプルーバル作業の際、私はヘッドホンだけでなく、スタジオのスピーカーで聴いてほしいと伝えています。スピーカーで聴いたか、ヘッドホンでしか聴いていないかは、先方からの修正内容を聞けばすぐ分かりますね」
アプルーバル作業に関して「私が手掛けた作品はだいたいミスやエラーの修正が1〜2カ所入るくらいで、すぐアプルーバルされることが多いです」と続け、最後にこう話した。
「アーティスト側もイマーシブという名の下にミックスを依頼しているので、ある程度の期待がそこにあり、これは動くだろうというものを私が動かしているので、皆さんには結構気に入っていただいています」