日本映画はエモーショナルな音楽が入る余地があるから
僕自身のピアノのマスターピースが生まれる可能性が高い
※本稿の最後に、渋谷慶一郎が『ATAK024 Midnight Swan』の楽曲を演奏するストリーミング・ライブのお知らせがあります。
ボーカロイド・オペラ『THE END』やアンドロイド・オペラ『Scary Beauty』、高野山の仏教音楽である声明とのコラボレーション『Heavy Requiem』など、近年は劇場作品での活躍が際立つ音楽家、渋谷慶一郎が、2009年の『ATAK015 for maria』以来となるピアノ・ソロ・アルバム『ATAK024 Midnight Swan』をリリースした。渋谷は、内田英治監督の映画『ミッドナイトスワン』(草彅剛主演)のサウンドトラックをプライベート・スタジオにこもりたった1週間で作曲、レコーディングといった制作の全工程を行い、それらの楽曲をもとに自身のピアノ・ソロ作品として再構成したという。そこで奏でられる音色は、決して広くない空間の特性を生かした“近いが耳に痛くない音像”と、その空間を思い起こさせない不思議な響きとのレイヤーで成立している。この独特で未知のピアノ・サウンドを、渋谷はどのように生み出したのだろうか?
Text:iori matsumoto
KORG MR-1000を通してNuendoに録音
SP1200でロービット化する手法の逆
ーあまり聴いたことの無いピアノの音像だと思いました。狭い空間であることは感じられるものの、ホールなどとは異なる独特の響きですね。
渋谷 まず、ピアノが新しくなったんです。これまで使ってたYAMAHAのグランド・ピアノCシリーズは芸大受験のときから「SPEC」や「THE END」など本当にたくさんの曲を作って愛着もあったのですが、ピアノ内部のマシン・ノイズが大きくなってきたので録音は厳しいなとなり、上位グレードのSXシリーズにしました。なので、このピアノでの最初の大々的な仕事になりました。あと、僕のピアノのマイキングはオフは立てないでEARTHWORKS PM 40だけというのが特徴です。これは杉本博司さんの映画のサントラである『ATAK018 Soundtrack for Memories of Origin Hiroshi Sugimoto』も「サクリファイス」のピアノとボーカル・バージョンも同様です。
ーグランド・ピアノに取り付けるタイプのステレオ・マイク、PM40がマウントされていますね。
渋谷 その角度や向き、ピアノの弦との距離、インプット・ゲインを曲ごとに調整して録音していきました。
ー渋谷さんはDSDで録音する機会がこれまでも多かったわけですが、今回もDSD録音だと伺いました。
渋谷 DSDレコーダーのKORG MR-1000を通したんです。普通はMR-1000に録音するじゃないですか? でも、自分で作曲しながら録音していると、MR-1000に録音したファイルをUSBでコンピューターに転送して、WAVにコンバートして、STEINBERG Nuendoに読み込んでエディットして……とやっているのがストレスになるんですよね。その作業のためにアシスタントを付けていると、集中力も落ちるし、自分のペースでできなくなる。だから自分のスタジオでのピアノ・レコーディングは一人でやることにしているのですが、DSDの音色は好きなので、マイクからREC状態にしたMR-1000を通して、RME Fireface UFCのインプットに入れている。
ースルーしたものをNuendoに直接録っている?
渋谷 そう。MR-1000のAD/DAが良いので、音質はDSDのクオリティになっている。DSD 5.6MHzでやれば、Nuendoに録ったWAVもDSD 2.8MHzくらいには聴こえます。ノリとしては、昔ヒップホップでE-MU SP1200を通してロービットにしていた手法の逆です(笑)。たぶん僕しかこの使い方はしていない。
ー初めて聞きました。
渋谷 ですよね。そうすれば直接Nuendoで録れるし、直接画面上で波形になっているから、OKテイクを組み合わせて編集もすぐできる。あと弾き方……演奏の感じもすごく変わると思うんです。MR-1000に直接録るとすると、言うなればスタジオに入って、エンジニアが“回ってます!”と言ってから録る感じになる。間違えられない感じです(笑)。僕はピアノをパーソナルな楽器/メディアとしてとらえているので椅子に半分腰掛けて、のけぞって弾いたり曲によってはピアノ椅子ではなくてアーロンチェアで弾いたり。ベッドから起きてきて何も考えないで弾いたテイクがどこも直す必要が無いとか、ドキュメント的な録り方ができる。
ーアルバム収録曲も、同じ曲のリテイクを試みるより、そうやって流れで録ったものが多いのでしょうか?
渋谷 幾つかの曲はワンテイクでOKだったり、数テイク録ったものをNuendo上で組み合わせたり。時には一音単位で編集することもあるし、ワンフレーズを数日に分けて録ったりすることもありました。映画のメイン・テーマである「Midnight Swan」は例外的に無数にテイクを録音して、2日間それしか弾いていないくらいで、クリックの有無やテンポ、強弱などを試しましたね。
ピアノの特性を考えると
キャッチーなメロディとコードは強力な選択肢
ー渋谷さんは普段からエッジな表現を追求されていますが、「Midnight Swan」を聴くと、キャッチーなメロディを生み出せる作曲家でもあることを再認識できました。
渋谷 ピアノの特性を考えると、単音で弾くとか、クラスターを鳴らすとかなどの、さまざまな表現の一つとしてキャッチーなメロディとコードというのは強力な選択肢の一つだという意識はずっとあって。ノイズでも、一発で耳にこびりつくようなノイズってあるじゃないですか? ピアノでそれをやるとしたら、クラスターよりも一発で覚えられるようなメロディの方が、脳内アディクションみたいなことにつながるから、そっちの方が面白いし強い表現になりますね。
ーメロディだけでなく、例えば「Bus」も最初のコード2つでぐっと引き込まれる感じがしました。
渋谷 この曲は、ハンス・ジマーやマックス・リヒターを意識してみたりしました(笑)。コード自体は3和音でありがちなんですけど。
ーでもそこで立ち上っている音に、何かの力がある。
渋谷 コードやメロデイなど楽譜に書ける音程の組み合わせはよく言われてる通りやり尽くされているけれど、押さえる瞬間の強さ、タイミング、ばらつき……そういう運動性は無限ですよね。あと、今回は2時間の映画音楽を1週間で作ったんですよ。Nuendo上に映像を張り付けて、映画を見ながら、実際の音も聴きながら、弾いて……ということをひたすらやっていたから、譜面に音符を書いたりする時間が無かった。
ーつまり、映像を見ながら、そこに合う音楽をその場で演奏して録っている?
渋谷 音楽がセリフを避けなくてはいけないところは音を伸ばしたりとか。
ーハリウッド的な映画音楽の制作システムだと、音楽をステムで渡してダビング・ステージで調整したりしますが、それを演奏そのものでやっているとも言えますね。
渋谷 例えば最近のハリウッドの映画音楽でメロディを覚えられる曲はほとんどないんですよね。音楽監督は効果音、ドローン的だったりミニマルな音響、背景音の監督をしているようなもので、音楽と効果音の境目が無い。でも日本映画の作り方は効果音と音楽がきっぱり分かれているから、MAを想定してステムで渡すというよりは、曲で作ってしまうことでしかできないんじゃないかと思います。逆に言えば、日本映画には断片的な音楽やメロディアスな音楽は入る余地があって、プロデューサーや監督のダイレクションがそこまで強くないので、僕自身はピアノのマスターピースが生まれる可能性が高いフィールドと認識しています。
Spotifyでヒップホップの後にかかっても
芯が通る音でピアノのアルバムを作る
ー『〜for maria』のころと比べると、表現としての渋谷さんのピアノのダイナミズムが広がったように感じました。
渋谷 演奏も変わりましたね。ピアノのアルバムを出してほしいとずっと言われていて、2009年の『〜for maria』から10年たった昨年に本当は出そうと思っていたんです。でも忙しくてできなかったし機は熟していなかった。自分が弾いているときに聴いている音、もしくは自分の隣に座って聴ける音という“パーソナルなピアノ”というコンセプトは今回も同じなんだけど、『〜for maria』を録っているときは衰弱していたので、波のない海のようなアルバムになった。それがいいかどうかは分からないけれど、あの状況でしか作れないアルバムであることは確かで。ある意味では強力なコンセプトアルバムを作ってしまったので、同じ方法でもう1作は無いなと思ってました。
ーそれで、ホール録音の『〜for maria』とは全く違うアプローチを試みたのですか?
渋谷 あの時代よりも今の方が流れている時間のスピードは何倍も速くなっているし、10年前はDSDの純度の高さに耳をそばだてるとか、繰り返しを味わうという聴き方も可能だったけれど、その間にCDもほとんどなくなり、音量も上がってきて、ダンス・ミュージックもピルみたいになっている。そういう中でピアノのアルバムを作るとしたら、ということは考えました。
ーだから、聴いたことのないような音像が生まれたと。近い音は文字通り近い位置に立ち上るんですが、弱い音が背景音のように感じられる瞬間が多々あるんです。
渋谷 『for maria』はオノ セイゲンさんと録音/ミックス、マスタリングまでDSDでやった純度100でした。今回はDSDレコーダーをスルーしてNuendoに録っているし、ミックスの葛西(敏彦)君もマスタリングのジョン・デイヴィス(メトロポリス・スタジオ)も、音を変えるタイプのエンジニアですよね。葛西君には“今回はピアノの音を変えたいんだよね”と相談したんです。例えばビリー・アイリッシュを聴いていると、APPLE AirPodsや近距離で聴くスピーカーに対して、ミックスやエフェクトでいろいろなことをやっているのが分かって、ある種の幻覚体験みたいな感じがあるし音量もある。どんなに良い音楽だとしても、Spotifyでそういう音楽の後にピアノでボソボソ言っているくらいしか聴こえないのだったら厳しいし、そこでリスナーに“音量を上げてください”と言うのは無理ですよね。だから、すごく鳴る、芯が通る音でピアノのアルバムを作ったら、どういう感情や記憶を喚起できるのかと。今回はそこにフォーカスしているから音像も新しいものになったし、ポピュラリティがある気がするんです。
僕はコンポーザーだから
必要があれば弾かないで次の響きを待てる
ー葛西さんがミックスを手掛けたとおっしゃいましたが、レコーディングはステレオですよね?
渋谷 「Bus」などピアノでオーバーダブしている曲はステムで渡していますが、ほかの曲はステレオ・ファイルだけ。相談しながら彼にEQ、コンプ、リバーブなどの処理をしてもらいました。葛西君とは、高域の処理の考え方が結構違っていて、新鮮に思うときもありました。彼の方が高域に対する処理がデジタルっぽいのかな。僕も高域が強い方なんだけど、ピアノに関しては中域……実際の音と音響の重なり合いや濁り方を重視している。
ーテイクごとにマイク設定は変えているのでしょうか?
渋谷 曲によってかなり変えています。使う音域が違うし、フォルテが多い曲は弦から離した方がいいとか、結構変えています。あとヘッドフォンでチェックしながら、曲によってマイキングで音決めする。だから、曲とピアノの音色が合っている感じがしませんか?
ーはい、そう思います。サンプリング的な音に感じられる瞬間がたくさんあるんですが、明らかに生ですし。
渋谷 サンプリングの元ネタに良さそうな部分は結構あると思います(笑)。“聴いたことが無い音”というのは、電子音楽でもピアノのアルバムでも僕の中では大きいですね。
ー渋谷さん自身がエフェクト処理をすることもある?
渋谷 「Bed」では僕がリバーブをかけたものを葛西君に渡して、葛西君もリバーブを足したんだけど、最終的には彼は自分でかけたリバーブを外していました。
ー「Bed」は独特な湿度感のある曲ですね。
渋谷 南米の教会みたいなね(笑)。UNIVERSAL AUDIO UAD-2のリバーブRealVerb ProとPrecision EQ、マルチバンド・コンプPrecision Multibandと、あとStuder A800、ROLAND RE-201をシミュレーションしたテープ・エコーを混ぜて。Studer A800はいいですね。これでちょっとレベルを上げるのと、コンプで上げるのとは全く違うことができる。すごく繊細な違いだけど質感が好きでよく使います。
ー余韻の立ち上る感じも独特だと思いました。
渋谷 ピアノのタッチが独特だとは昔からよく言われますね。あと、僕は必要があれば次の音を弾かないで響きを待てるんですけど、これはテンポが揺れるのとは違うのです。ピアノの音楽には時間発展する線的なメロディと、重なる層がある。言ってみればエモーショナルな言葉と論理のように対になるものが同時に迫ってくるようなもので、だから逃げられない。ピアノ音楽が好きな人が多いというのはそういうことだと思うんです。その上で縦の響きのアプローチとか、この音とこの音をどう混ぜるかは強弱やタイミングがかかわっているから、そこはかなり聴いて弾いています。
ーこの作品の独自性はそこに起因しているような感じはしますね。パッと聴いただけでもキャッチーですが、よく聴くとディテールに引き込まれる。
渋谷 そこは音響派以降の耳で弾いているというのもあると思います。あと、このスタジオは建材がいいから響きが良い。ずっとここを使っているのはそれが理由ですね。DSDみたいに高解像度が発達するほど、そういうところまで録れてしまうから。
ジョン・デイヴィス氏のマスタリングは
音圧はあってもディテールもクリアな素晴らしい音
ー音の近さという点では、数々のロック名盤やFKAツイッグスなどを手掛けるジョン・デイヴィス氏のマスタリングがポイントになっているのではないかと思いました。
渋谷 そう思います。オンライン・マスタリングでしたが、最初に彼から届いたのはものすごく音が大きくて、ヒップホップを聴いていた音量設定で再生しても耳が痛い(笑)。“ポップ・ミュージックと並べて聴ける音圧とダイナミクスにしたい”とは伝えていたんですが、そこにフォーカスしまくっていたんですね。それで1曲ごとに細かくリクエストを出したら、本気を出してくれたみたいで(笑)、僕がAirPodsでもチェックしていると言ったから、彼もそうしたと思うんです。音圧はあるけれど豊潤な、素晴らしい音で仕上がってきました。
ーイヤホンやスピーカーでの立ち方が、デイヴィス氏のマスタリングの効果として大きかった?
渋谷 自宅のECLIPSE TDで聴いても立体的に聴こえるし、メディアを選ばない仕上がりだと思います。最近流行しているSONOSなどの小さいスピーカーも結構音はいいじゃないですか? AirPodsが究極に耳に近いけどSONOSとかもデスクの上とかに置いて聴く。耳との距離が近いのは、音楽の細かいところまで聴こえるというアドバンテージがあります。だから小さくて安いスピーカーを使っている若いリスナーをナメてはいけないし、聴き手としてのレベルが高い。AirPodsで歩きながら聴いていても、細部を聴く癖がついているから。そう考えると、マスタリングとかミックスの音響的な処理の方向性は、音圧と細部の両極が重要になってきます。
ーそういう意味も含め、デイヴィス氏のマスタリングは、渋谷さんの狙い通りになったわけですね。
渋谷 そうですね。結構な賭けでしたけど、今までにない音で、『〜for maria』とは全く方向の違うものにできたという満足感はあります。あと、繰り返し聴いていても疲れない音色感になってると思います。
ー今後の渋谷さんの予定は?
渋谷 今年8月に上演を予定していたオペラ『Super Angels』が延期になったので、引き続きその制作がメインですが、面白そうな映画音楽のオファーも来ています。
ー最近は、劇場音楽作品での活動が増えていますが、一方でドラマ『SPEC〜警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿〜』(2010年)で渋谷さんの音楽を知った方などからは、映像音楽も期待していると思います。
渋谷 オペラのような劇場音楽と映像音楽は僕にとって現状では対照的なんです。よく冗談で言っているけれど、音楽を聴いて感動しているときとすごいスピードで音楽を作っているときは脳の状態が近い気がしていて、だから映画のメインテーマなどは一瞬で作ったほうが印象に残るものができる。聴取の速度と同じようなスピードで作るのは作曲家の能力として重要だし、オペラでもノイズでもあるショックやインパクトを作るというのはそういうことです。その凝縮した形態として僕の仕事の中でも、重要なカテゴリーなんです。
Release
『ATAK024 Midnight Swan』
渋谷慶一郎
ATAK:ATAK024
- Midnight Swan
- Bus
- Tutu
- Tears
- Empty
- Rain
- Midnight
- Lesson
- Lust
- Anger
- Lament
- Bed
- Mother
- Sea
Musician:渋谷慶一郎(ac.p) Producer:渋谷慶一郎 Engineer:渋谷慶一郎、葛西敏彦 Studio:ATAK TOKYO、ATLIO
Keiichiro Shibuya Playing Piano in the Distance
渋谷慶一郎、初の無観客ピアノソロコンサート・ライブ配信!
『ATAK024 Midnight Swan』の発売を記念して渋谷慶一郎が初のライブ配信による無観客のピアノ・ソロ・コンサートを開催。『ATAK024 Midnight Swan』に加え「SPEC」や「告白」など今までに渋谷が手掛けた映画音楽を中心に、アンドロイド・オペラ『Scary Beauty』など近作を含めたさまざまな楽曲の演奏をRittor Baseの音響システムによる最高音質でライブ配信。
<Keiichiro Shibuya Playing Piano in the Distance>
開催日時:2020年9月25日 (金) 22:00 START
(アーカイブは2020年10月3日0時まで視聴可能)
ストリーミング視聴券:2,000円 (前売)/3,000円 (当日以降)
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